有泉龍之助
有泉 龍之助 | |
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有泉 龍之助(海軍中佐時代) | |
生誕 |
1904年4月16日 日本 東京都 |
死没 |
1945年8月31日(41歳没) 日本 千葉県沖太平洋 「伊号第四百一潜水艦」内 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1924年 - 1945年 |
最終階級 | 海軍大佐 |
墓所 | 多磨霊園 |
有泉 龍之助[* 1]︵ありいずみ たつのすけ[1]、1904年︿明治37年﹀4月16日 - 1945年︿昭和20年﹀8月31日[* 2]︶は、日本の海軍軍人︵海兵51期卒︶。最終階級は海軍大佐。
経歴[編集]
東京都出身。旧幕臣で日本海海戦に参戦[2]した海軍主計中佐[3]・有泉庚午の長男として生まれる。静岡中学校を経て、1923年︵大正12年︶7月、海軍兵学校︵51期︶を卒業。1924年︵大正13年︶12月、海軍少尉に任官。海軍水雷学校高等科、海軍潜水学校︵乙種学生︶で学ぶ。 1931年︵昭和6年︶4月、﹁呂号第六十四潜水艦﹂乗組となり、装甲巡洋艦﹁浅間﹂分隊長、﹁伊号第五十一潜水艦﹂﹁伊号第百五十六潜水艦﹂﹁伊号第七十潜水艦﹂の各水雷長を経て、1937年︵昭和12年︶7月、海軍大学校︵甲種35期︶を卒業。 1937年︵昭和12年︶8月、佐世保警備戦隊参謀に就任し、第3潜水戦隊参謀、﹁呂号第三十三潜水艦﹂長を歴任し、軍令部第1部第2課部員となり潜水艦の主務者であった。1940年︵昭和15年︶11月、海軍中佐に進級し、太平洋戦争を迎えた。有泉は真珠湾攻撃に特殊潜航艇﹁甲標的﹂を使用することを主張し実現させた。 1942年︵昭和17年︶3月、第8潜水戦隊参謀に発令され、第11潜水戦隊参謀、﹁伊号第八潜水艦﹂長を歴任。1944年︵昭和19年︶10月、海軍大佐に進級。同年12月15日、第六三一海軍航空隊司令兼副長に就任[4]。1945年︵昭和20年︶1月1日、第1潜水隊司令兼務[5]。同年7月23日、ウルシー環礁に在泊する連合軍艦船攻撃の命を受け﹁伊号第四百一潜水艦﹂に座乗し大湊を出撃。攻撃開始の直前に終戦となり、降伏の命令を現地で受ける。艦内では自沈か攻撃かで激論となったが、結局は艦長の判断で帰還と決し、帰還途上の8月29日、米海軍の潜水艦セグンドにより海上で拿捕され、有泉は司令室で自決した[* 3]。机には真珠湾攻撃で戦死した九軍神の写真があったという。遺体は米軍の目を盗んで密かに水葬された。脚注[編集]
注釈
(一)^ 昭和13年6月20日付 海軍辞令公報 ︵部内限︶号外 第198号、昭和19年12月18日付 秘海軍辞令公報 甲 第1672号ほか、海軍辞令公報による。龍之介ではない。
(二)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 海軍篇﹄では8月29日となっているが著者の外山操が後年著した﹃艦長たちの軍艦史﹄では31日、半藤一利の﹃戦死の遺書﹄その他の文献も31日である。
(三)^ 自決後の進級はしておらず、階級は海軍大佐のままである[1]。
出典
(一)^ ab秦 2005, p. 178, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-有泉龍之助
(二)^ 有終会﹃懐旧録﹄
(三)^ 佐藤次男﹃幻の潜水空母﹄光人社NF文庫、2001年。ISBN 4-7698-2313-4。104頁
(四)^ ﹁昭和19年12月18日付 秘海軍辞令公報 甲 第1672号﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072102300
(五)^ ﹁昭和20年1月7日付 秘海軍辞令公報 甲 第1686号﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072102800