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朝倉 氏景︵あさくら うじかげ︶は、南北朝時代の武将。朝倉氏の第3代当主。第2代当主・朝倉高景の子。
父・高景と同じく、文和4年︵1355年︶2月15日の京都の合戦において[1]、貞宗︵相州貞宗か︶の名刀で奮戦し、足利尊氏から偏諱を賜り、氏景と称するようになったとされるが、この時朝倉氏は南朝側に属して尊氏と敵対していたため、尊氏が氏景に偏諱を与えたという話は怪しい[2]。
その後、貞治の変で主君・斯波高経が室町幕府から討伐の対象とされると、父・高景が幕府側に通じて所領を安堵され、一時期斯波氏を離れている。康暦年間に斯波氏が越前守護に復帰すると、斯波氏の家臣に復帰した[3]。
その後、摂津の合戦でも戦功を挙げ、足利義満から﹁大功﹂の法名を賜ったとされる︵﹃朝倉始末記﹄末巻﹁日下部系図﹂より︶。
しかしその後、朝倉氏は幕府や主筋たる斯波氏から冷遇されるようになり、明徳年間の斯波氏重臣を記した﹁相国寺供養記﹂に氏景など朝倉氏の名前は記載されていない。
応永8年︵1401年︶、弘祥寺に仏殿を建立し、一乗谷に熊野権現を勧請した。これが朝倉家の一乗谷と関係する最初の事例である[1]。
応永11年︵1404年︶に死去、享年66。家督は子の貞景︵大心宗忠︶が継いだ。
朝倉氏第3代当主(1372年 - 1405年) |
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