本多一夫
ほんだ かずお 本多 一夫 | |
---|---|
生誕 |
1934年7月11日(89歳) 日本 北海道札幌市 |
出身校 | 北海道札幌啓北商業高等学校 |
職業 | 俳優、実業家 |
本多 一夫︵ほんだ かずお、1934年7月11日 - ︶は、日本の劇場経営者、実業家、俳優である。本多劇場グループ代表として、下北沢が﹁演劇の街﹂と呼ばれるようになった契機を作った[1]。社団法人日本劇団協議会顧問。東京都世田谷区在住。息子は本多劇場総支配人の本多慎一郎[要出典]。
人物[編集]
新東宝の俳優[編集]
北海道札幌市[2][3]に生まれ、1953年︵昭和28年︶に北海道立伏見高校︵現・北海道札幌啓北商業高等学校︶を卒業後、北海道放送︵HBC)の演劇研究所[4]で学んだ後に上京した。 初めは俳優として活動し、映画俳優として新東宝に入社、1955年︵昭和30年︶の﹃新東宝ニューフェイス 第4期生﹄となった。新東宝ニューフェイスの同期には、女優・三ツ矢歌子、原知佐子、万里昌代、浅田勝子らがいた。 新東宝入社後には多数の作品に出演したものの、役に恵まれず、ほとんどが端役だった。本多が所属していた新東宝も1961年︵昭和36年︶には倒産した。飲食店経営の実業家[編集]
新東宝の倒産とともに映画俳優に見切りをつけた本多は、わずかな資金を元手に下北沢駅近くでバー︵トリスバー︶を開店した。 そのバーにかつての俳優仲間が頻繁に手伝いに訪れたことから、﹁映画スターがお酌をしてくれる店﹂と評判になって経営は成功した。その後も業績は順調に伸び、本多は下北沢と周辺地域の店舗を次々に買収して事業を拡大、実業家として一時期は80軒以上もの居酒屋を所有していた。俳優養成と劇団経営[編集]
しかし本多自身はショービジネスの世界を諦めきれず、演劇養成所﹁本多スタジオ﹂を設立。役者を目指す若者たちの﹁都心には大きな劇場は多いが、自分たちの求める演劇用の劇場が不足している﹂という話を聞き、﹁彼らの夢の力になりたい﹂という思いから劇場を作ること決意。下北沢駅に隣接する土地にマンションを建設し、その2階に﹁構想十年、自らの心血を注いだ理想の演劇専用劇場﹂として本多劇場をオープンさせた。それに先立ち﹁本多スタジオ﹂の稽古場も小劇場﹁ザ・スズナリ﹂として劇場化し︵現在も同名の貸し稽古場﹁本多スタジオ﹂があるが、別の場所に存在︶、その後も1980年代半ばに巻き起こった﹁小劇場演劇ブーム﹂を追い風に、次々と小劇場スペースを展開して本多劇場グループを形成、下北沢が﹁演劇の街﹂となる土壌を固めた。 2007年に﹁大人のための劇場﹂というコンセプトで小劇場﹁楽園﹂をオープンしたほか、本多自らも役者として、熟年劇団である﹁パラダイス一座﹂などの舞台に立っている。2018年、吉川英治文化賞受賞。2022年、東京都名誉都民選定[5]。俳優としての主な出演[編集]
テレビ番組[編集]
●下北サンデーズ︵2006年7月〜9月 テレビ朝日系︶- ※本人役 ゲスト ●下北沢ダイハード (2017年7月~9月 テレビ東京系) - ※最終話 ゲスト映画[編集]
●リングの王者 栄光の世界︵1957年、新東宝︶ ●拳銃と驀走︵1960年、新東宝︶ - 金子 ●反逆児︵1960年、新東宝︶ - 松野 ●女巌窟王︵1960年、新東宝︶ ●ざわざわ下北沢︵2000年、シネマ下北沢︶ - 小屋主 ●ざわざわ下北沢 の、できるまで。︵2001年、シネマ下北沢︶- ※﹁ざわざわ下北沢﹂のメイキング作品舞台[編集]
●パラダイス一座旗揚げ公演﹁オールド・バンチ〜男たちの挽歌﹂︵2006年12月6日 - 12月13日、ザ・スズナリ︶ ●本多プロデュース公演﹁お年を召しませ!〜ケアハウス﹃ごきげんさん﹄の愛すべき日常〜﹂︵2024年5月2日 - 5日、小劇場B1︶[6]脚注[編集]
(一)^ “﹁﹃演劇の街﹄をつくった男 本多一夫と下北沢﹂書評 〝場〟から語るナマモノの歴史”. 好書好日. 2022年3月6日閲覧。
(二)^ 読売新聞 夕刊8面 2017年7月28日 第4金曜日掲載﹁レジェンド Legend﹂ 純粋に演劇人のため 本多劇場グループ代表 本多一夫
(三)^ 第3回表彰 第3回渡辺晋賞‥本多一夫氏 一般財団法人 渡辺音楽文化フォーラム
(四)^ “本多劇場 Official Website|本多劇場と本多一夫について”. honda-theater. 2022年7月10日閲覧。
(五)^ ﹃東京都広報﹄第17671号18頁 令和4年10月3日
(六)^ “本多一夫ら出演、介護型ケアハウスを舞台にした物語﹁お年を召しませ!﹂”. ステージナタリー. ナターシャ (2024年4月26日). 2024年4月27日閲覧。