本木良永
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本木 良永︵もとき よしなが/りょうえい、享保20年6月11日︵1735年7月30日︶ - 寛政7年7月17日︵1794年8月12日︶︶は、江戸時代のオランダ通詞。通称は栄之進、仁太夫、字は士清、号は蘭皐。
略歴[編集]
長崎の御用医師・西松仙の子として生まれ、13歳で母方のオランダ通詞・本木良固の養子となった。養父にオランダ語の手ほどきを受けた。しかし、その一年後に養父が死去し、その跡役として15歳で稽古通詞となった。1766年︵明和3年︶32歳で小通詞末席に進み、1777年︵安永5年︶43歳で小通詞並、1782年︵天明2年︶小通詞助役、1787年︵天明8年︶53歳で小通詞、翌年大通詞︵おおつうじ︶に昇進する。その間、辞書や蘭書に当たって独学を重ねた[1]。 オランダから輸入されたさまざまな洋書を翻訳し、西洋の自然科学などの知識を日本に持ち込んだ。オランダ語で書かれた天文書にあるニコラウス・コペルニクスの地動説を翻訳、訳書﹃和蘭地球図説﹄や﹃天地二球用法﹄において日本に紹介した。また1792年の﹃太陽窮理了解説﹄では初めて﹁惑星﹂という用語を用いた[2]。 1793年の﹃星術本原太陽太陽窮理了解新制天地二球用法記﹄の中で、なぜ惑星と和訳したかを次のように述べている[3]。 オランダ人がこの天体を惑星と名付けたわけは、この星ここに在るかと見ればかの所に在り、天文学者その位置の計算に迷い惑えるによりて惑星と命名—本木良永、『星術本原太陽太陽窮理了解新制天地二球用法記』
長崎歴史文化博物館には伝・若杉五十八筆の﹁本木良永夫妻像﹂がある。
息子の本木正栄はオランダ語のほかに、ヅーフについてフランス語、ブロムホフについて英語を学び、日本最初の英語学書﹁諳厄利亜︵アングリア︶興学小筌﹂﹁諳厄利亜語林大成﹂、また最初のフランス語学書﹁払郎察︵フランス︶辞範﹂を編纂した[4]。子孫に本木昌造など。
1916年︵大正5年︶、正五位を追贈された[5]。
訳書[編集]
●﹃和蘭地図略説﹄ 1771年、37歳、校訂松村元網 (?ー1796?)、ドイツ人ヒュブネル (1668-1731) の地理書﹃新旧地理学問答︵1722年版︶﹄︵初版1711年︶を蘭訳したもので、その地図用法の章の抄訳したもの[1]。 ●﹃阿蘭陀地球説訳﹄、1772年、38歳、校訂松村元網、原書はフランス人ルナール︵L.Renard︶の﹃大判の航海地図﹄︵1715年刊︶を蘭訳・増訂した﹃世界航海貿易地図帳﹄︵1745年、アムステルダム刊︶で、その説明記事の部分を翻訳したもの。新発見の陸地、数理地理的事項、天動説・地動説などに関する記事からなる[1]。 ●﹃平天儀用法﹄ 1774年 ●﹃天地二球用法﹄ 1774年︵延享元年︶44歳、校訂松村元綱、原書はオランダ人ブラウ(W.J.Blaeu:1571-1638)の﹃天地両球儀の二様の入門﹄(1666年刊、初版1620年刊)で、その初めの部分を訳したもの。ここでコペルニクスの地動説の内容が具体的に紹介された。 ●﹃渾天地球総説﹄ 1781年 ●﹃阿蘭陀全世界地図書訳﹄ 1790年 ●﹃太陽窮理了解説﹄ 1792年 惑星という言葉が初めて用いられた。 ●﹃星術本原太陽太陽窮理了解新制天地二球用法記﹄ 1793年[3]脚注[編集]
(一)^ abc岡田俊裕﹃日本地理学人物事典*近世編﹄原書房、2011年4月25日、110頁。ISBN 9784562046942。
(二)^ 廣瀬匠﹃天文の世界史﹄集英社、2017年12月7日、29頁。ISBN 978-4797680171。
(三)^ ab監修 中村士 執筆協力 小林幸枝﹃江戸の天文学﹄角川学芸出版、2012年 ISBN 978-4-04-653265-7
(四)^ もときしょうざえもん︻本木庄左衛門︼大辞林 第三版
(五)^ 田尻佐 編﹃贈位諸賢伝 増補版 上﹄︵近藤出版社、1975年︶特旨贈位年表 p.41