杉原一司
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杉原一司 | |
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誕生 |
1926年8月27日 鳥取県八頭郡丹比村大字南 |
死没 | 1950年5月21日(23歳没) |
職業 | 歌人 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 鳥取県立鳥取商業学校卒業 |
影響を受けたもの
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影響を与えたもの
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杉原 一司︵すぎはら かずし、1926年︵大正15年︶8月27日 - 1950年︵昭和25年︶5月21日︶は、日本の歌人。塚本邦雄の盟友としてその作風に影響を与えた。
経歴[編集]
鳥取県八頭郡丹比村大字南︵現‥八頭町︶出身。鳥取県立商業学校︵現‥鳥取県立鳥取商業高等学校︶在籍時、岸本光治、中林則男らと短歌を作り始める。一学年上には新野幸次郎︵元神戸大学学長、﹃花軸﹄同人︶がいた。 1943年︵昭和18年︶から1945年︵昭和20年︶に安部国民学校︵現‥八頭町立安部小学校︶に勤務。この頃、石塚敏夫︵安部国民学校の同僚︶の紹介で前川佐美雄を知り、手紙のやり取りが始まる。 1945年︵昭和20年︶2月12日に安藤令子と結婚。同年3月27日に徴用され戦地へ。同じ部隊にいた佐々木一雄︵今井書店勤務︶と知り合い、歌集の作成を計画したが、実現することはなかった。4月3日から翌年の1946年︵昭和21年︶1月4日まで、前川の妻子が杉原宅に疎開している。 1946年︵昭和21年︶8月、前川佐美雄によって歌誌﹃オレンヂ﹄が創刊される。11月には、坂本好秋、尾崎窕子らと同人雑誌﹃詩歌祭﹄を創刊。 1947年︵昭和22年︶4月1日より1948年︵昭和23年︶3月31日までの間、丹比小学校︵現‥八東小学校︶勤務。3月22日、長女ゆあみ誕生。4月には、小谷五郎らと同人雑誌﹃花軸﹄を創刊。 1948年︵昭和23年︶5月1日、天理語学専門学校本科フランス語部︵現‥天理大学︶入学。11月3日、長男ほさき誕生。 1949年︵昭和24年︶8月、塚本邦雄、稗田雛子らと﹃メトード﹄を創刊。1950年︵昭和25年︶2月の第7号まで作られ廃刊となった。同年5月21日、死去。享年23歳であった。10日余り後、塚本が弔問に訪れる。塚本は杉原への追悼として、第一歌集﹃水葬物語﹄を1951年︵昭和26年︶に刊行した。 2020年︵令和2年︶3月、長男ほさきを製作代表とした﹁杉原一司歌集刊行会﹂によって﹃杉原一司歌集﹄﹃メトード歌文集﹄が刊行された。評価[編集]
歌人の塚本邦雄は、一司を次のように評している。 ﹁頭脳俊敏、苦み走った美丈夫であった。十年、二十年先の定型詩の方向を指し、その修辞学の理想を考え、言葉の海におぼれようとする私を励まし導いてくれた。戦後前衛短歌の隠れたリーダーの一人として、私は顕彰し続けて来た。私の作品のバックボーンを作りあげてきたのは、彼である﹂[1]。参考文献[編集]
- 『杉原一司歌集』刊行会編、2020年。ISBN 978-4908256301
- 他に妻・杉原令子の歌、岡村知子解説、関係年譜