李王職
李王職︵りおうしき、이왕 직︶は、朝鮮の日本統治時代から連合軍軍政期︵1911年 - 1947年︶の間、宮内大臣の管轄下で王公族の家務を掌る機関として京城府︵現在のソウル特別市︶に置かれた機関。大韓帝国宮内府の後身である。
宮内省の外局という位置づけであったが、朝鮮統治の都合上、朝鮮総督府の監督も受けた。
組織[編集]
●庶務係‥人事・総務・その他庶務を司る。 ●会計係‥経理・財産・営繕を司る。 ●掌侍係‥王公族の側近として仕える。 ●掌祀係‥李氏朝鮮以来の祭祀・陵墓・雅楽を司る。 ●掌苑係‥昌慶苑︵現昌慶宮︶に関する事項を司る。職員[編集]
●長官 李王職の事務を総理して職員を指揮監督する。勅任官。 ●次官 長官を輔け、長官が有事の時はその職務を代理する。勅任官。 ●事務官 庶務を担当する。36人奏任官の内3人は勅任官。 ●賛侍 李王及李太王に近従して身側の事を分掌する。12人奏任官の内2人は勅任官。 ●典祀 祭祀及墳塋に関する事務を分掌する。 ●典医 診候調薬及衛生の事を分掌する。 ●技師 建築土木及園芸に関する技術の事を分掌する。歴代長官[編集]
(一)閔丙奭︵1911年︵明治44年︶2月1日 - 1919年︵大正8年︶10月20日︶ (二)李載克︵1919年︵大正8年︶10月20日 - 1923年︵大正12年︶3月1日︶ (三)閔泳綺︵1923年︵大正12年︶3月1日 - 1926年︵昭和2年︶1月6日︶ (四)篠田治策︵1927年︵昭和2年︶1月6日 - 1927年︵昭和2年︶4月7日︶ (五)韓昌洙︵1927年︵昭和2年︶4月7日 - 1932年︵昭和7年︶7月1日︶ (六)篠田治策︵1932年︵昭和7年︶7月1日 - 1940年︵昭和15年︶3月9日︶ (七)李恒九︵1940年︵昭和15年︶3月9日 - 1945年︵昭和20年︶3月10日︶・・・李完用の子 (八)児島高信︵1945年︵昭和20年︶3月10日 - 1945年︵昭和20年︶5月16日︶ (九)張憲植︵1945年︵昭和20年︶5月16日 - 1946年︵昭和21年︶1月30日︶歴代次官[編集]
(一)小宮三保松︵1911年︵明治44年︶2月1日 - 1917年︵大正6年︶1月15日︶ (二)国分象太郎︵1917年︵大正6年︶1月15日 - 1921年︵大正10年︶9月7日︶ (三)上林敬次郎︵1921年︵大正10年︶9月16日 - 1923年︵大正12年︶2月24日︶ (四)篠田治策︵1923年︵大正12年︶2月24日 - 1932年︵昭和7年︶7月1日︶ (五)李恒九︵1932年︵昭和7年︶7月1日 - 1940年︵昭和15年︶3月9日︶ (六)児島高信︵1940年︵昭和15年︶3月9日 - 1946年︵昭和21年︶1月30日︶参考文献[編集]
- 新城道彦「李王職の編成と職員の構成―1911年から1943年までの李王職の構成人員確定作業」『韓国言語文化研究』18号、九州大学韓国言語文化研究会、2010年
- 新城道彦「李王職の編成と長官・次官・事務官の略歴―王公族研究の基礎データ」『韓国研究センター年報』11号、九州大学韓国研究センター、2011年
出典[編集]
- 中野文庫-李王職官制 - ウェイバックマシン(2003年8月20日アーカイブ分)
- 日本戦前官僚事典-宮内省 - ウェイバックマシン(2015年1月28日アーカイブ分)