李石曽
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李石曽 | |
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![]() Who's Who in China 4th ed.(1931) | |
プロフィール | |
出生: |
1881年5月29日 (清光緒7年5月初2日) |
死去: |
1973年(民国62年)9月30日![]() |
出身地: |
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職業: | 政治家・教育者・生物学者・ジャーナリスト |
各種表記 | |
繁体字: | 李石曾 |
簡体字: | 李石曾 |
拼音: | Lǐ Shízēng |
ラテン字: | Li Shih-tseng |
和名表記: | り せきそ |
発音転記: | リー シーゾン |
李 石曽︵り せきそ︶は、中華民国︵台湾︶の政治家・教育者・生物学者。ジャーナリスト。石曽は字で、名の煜瀛でも知られる。筆名は真民、真、石僧などがある。父は清末の政治家・学者である李鴻藻。
事跡[編集]
無政府主義への傾倒[編集]
初めは旧学を学んでいたが、1902年︵光緒28年︶、出使法国大臣︵フランス公使︶に就任した孫宝琦に随従してフランスに赴く。まず農業学校で学び、卒業後にルイ・パスツール大学とパリ大学で生物学を専攻した。このとき、ジャン=バティスト・ラマルクの進化論とピョートル・クロポトキンの相互扶助論︵無政府主義︶に傾倒している。1906年、李石曽は張静江︵張人傑︶らと共に﹁世界社﹂を結成し、週刊誌﹃新世紀﹄を刊行して無政府主義の宣伝に努めた。また同年8月に、張の紹介で中国同盟会に加入している。1909年、パリで豆腐の会社を設立し、﹁素食﹂︵菜食主義︶も提唱した。 1911年に帰国し、黄復生らと天津で京津同盟会を組織し、機関紙﹃民意報﹄を刊行した。中華民国成立後の1912年︵民国元年︶には、呉敬恒︵呉稚暉︶・蔡元培らと共に﹁進徳会﹂を、さらに唐紹儀・宋教仁らと﹁社会改良会﹂を結成している。また、北京で﹁留法倹学会﹂と留法予備学校を組織し、フランス留学のためのインフラ整備に尽力した。その一方で、袁世凱の革命派弾圧に反感を覚え、一時は暗殺団を組織するなどしたとされる。翌年、第二革命︵二次革命︶が失敗すると、再び欧州へ留学している。勤工倹学運動[編集]
1914年、李石曽は蔡元培らとフランスで﹁留法西南維持会﹂を、翌1915年には﹁勤工倹学会﹂・﹁華法教育会﹂を結成し、本格的に勤工倹学運動を開始した。1916年、雑誌﹃旅欧﹄を創刊している。翌年12月に帰国し、国立北京大学の招聘を受けて生物学と社会学の教授を務めた。1919年︵民国8年︶には、中国側で﹁留法勤工倹学会﹂を組織し、翌1920年︵民国9年︶に北京で私立中法大学を創設して董事長となっている。同年中には再びフランスへ赴き、呉敬恒らとリヨン中法大学を創設し、1923年には李が理事長兼校長代理を務めた。 1924年︵民国13年︶1月、李石曽は中国国民党第1期中央監察委員に選出され、以後第6期まで連続してこの地位に選ばれた。同年11月、対ロシア︵ソビエト連邦︶庚子賠償︵義和団事件賠償︶委員会中国委員代理を務める。翌年、国民党中央政治委員会委員に任命された。孫文︵孫中山︶死後、党内での李は反共右派の立場をとったが、西山会議派には与していない。1926年︵民国15年︶、段祺瑞による学生デモ弾圧事件︵﹁三・一八惨案﹂︶が発生すると、段からデモ首謀者の1人として指名手配を受けてしまう。そのため、南下して国民政府に合流し、教育行政委員会委員などを務めた。中国国民党での活動[編集]
1928年︵民国17年︶に北伐が完了すると、李石曽は国立北平大学︵北京大学の改称︶と国立北平師範大学︵現在の北京師範大学︶で校長に任ぜられた。同年10月には故宮博物院参事となる。翌年、国民政府で建設委員会委員と大学委員会委員に任ぜられ、さらに国立北平研究院が成立すると、院長となった。1930年︵民国19年︶に中原大戦が勃発すると、李は張学良の下に赴いて蔣介石に味方するよう説得し、これに成功している。 1931年︵民国20年︶、李石曽は北平大学校長の職を退くが、同年に北平文化指導委員会副委員長、国民党中央政治会議委員に任命された。満州事変勃発後の国民政府各派による大同団結に際し、李は各派の斡旋に奔走している。1934年︵民国23年︶1月、建設委員会常務委員に昇進した。日中戦争が勃発すると、李石曽はそれまでに蓄積した対外人脈を生かして、欧米や香港を歴訪し、国民政府の正統性を高めるための外交に尽力している。晩年[編集]
戦後の1946年︵民国35年︶12月に、李石曽は国立北平研究院院長に再び任命された。1948年︵民国37年︶、総統府資政に任ぜられる。国共内戦末期にスイスへ去り、1950年にはウルグアイに移住した。1953年︵民国42年︶、台湾に移り、国民党第7期中央評議委員に選出されている。 1973年︵民国62年︶9月30日、台北市にて病没。享年93︵満92歳︶。参考文献[編集]
●徐友春主 編﹃民国人物大辞典 増訂版﹄河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
●劉国銘主編﹃中国国民党百年人物全書﹄団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
●﹃最新支那要人伝﹄朝日新聞社、1941年。