東京キリスト教青年会会館
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東京キリスト教青年会会館 YMCA Tokyo Building | |
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情報 | |
旧名称 | 東京基督教青年会館 |
用途 | 英語教室、人事相談所、講演会、聖書研究会、小集団活動 |
管理運営 | 東京青年会(現・東京YMCA) |
状態 | 解体 |
開館開所 | 1894年(明治27年)5月5日 |
改築 | 1992年 |
解体 | 2003年 |
所在地 |
〒101-0053 東京都千代田区神田美土代町7 |
座標 | 北緯35度40分33.2秒 東経139度44分41.9秒 / 北緯35.675889度 東経139.744972度座標: 北緯35度40分33.2秒 東経139度44分41.9秒 / 北緯35.675889度 東経139.744972度 |
東京キリスト教青年会会館︵とうきょうきりすときょうせいねんかいかいかん︶は、神田美土代町にかつてあった東京青年会︵現・東京YMCA︶の本部会館である[1]。1894年︵明治27年︶に建設され、神田錦町にあった映画館錦輝館と共に青年の交流の場であった。その後、1992年︵平成4年︶に改築され、東京YMCAの本部会館として2003年︵平成15年︶まで使用された。基督教青年会館、東京基督教青年会館、神田の基督教青年会館、東京青年会館、神田YMCA、YMCA神田会館など様々な呼称がある。
概要[編集]
東京キリスト青年会会館は1894年︵明治27年︶以来、明治時代、大正時代、昭和時代を通じ文化の御殿といわれて親しまれた。英語の教授、近代スポーツの導入と普及、人事相談、学生寄宿舎の設置、講演会、聖書研究会の開催、小集団活動など多彩な事業で親しまれてきた。 会館の建物は、1889年に北米YMCAから海外派遣主事として着任したJ.T.スウィフトが、自身が受け取るべき遺産と募金によって1894年に建設され、設計は鹿鳴館やニコライ堂などを設計したイギリス人建築家のジョサイア・コンドルが担当した。赤レンガの壮麗な会館には1000人を収容する大講堂があり、アインシュタインや内村鑑三、板垣退助など、数々の思想家が講演を行った[2]。 日本で初めて体育館に室内温水プールが造られたことでも知られ、従来の古式泳法に代わり、クロールやバックストローク︵背泳ぎ︶など近代泳法が研究され、当時、最新設備が整った総合体育館として東洋一と言われた。プールはオリンピック選手たちの練習場や強化合宿の会場としても使われ、1928年アムステルダムオリンピックで800mリレー銀メダルを獲得した高石勝男や1949年(昭和24年)の全米選手権で400、800、1500m自由形の世界新記録を樹立し﹁フジヤマのトビウオ﹂と呼ばれた古橋広之進をはじめ、1932年ロサンゼルスオリンピックで金メダルを数多く獲得した日本選手団も事前合宿を行うなど、日本水泳界の競技レベルの向上と国際化に大きく貢献した[3]。 また、東京YMCAはバスケットボールやバレーボールなど多くのスポーツを日本に紹介し、普及に貢献したことでも知られている[3][4]。沿革[編集]
詳細は「再臨運動」を参照
・1919年︵大正8年︶5月26日 会館が内村鑑三に会館使用拒否を通告する。[9]
・1920年︵大正9年︶10月28日 明治大学ハーモニカソサエティーの演奏会で明治大学校歌が初演奏される[注釈 6]。
・1922年︵大正11年︶11月24日 来日した物理学者アルベルト・アインシュタインが会館で一般講演﹁物理学における空間および時間﹂を行う。
・1923年︵大正12年︶関東大震災により会館を失う。焼け残った体育館を避難所として提供[2]。
・1924年︵大正13年︶9月5日 会館で関東大震災の朝鮮人及中国人虐殺懺悔祈祷会が開催される。[10]
・1939年︵昭和14年︶4月29日 会館で全国から30の教会の代表が集まり、日本独立基督教会同盟会創立総会が開かれた。
・1944年︵昭和19年︶2月25日 食料節約のため地下食堂が雑炊食堂となる[11]。
・1945年︵昭和20年︶会館は体育館の一部を除き戦災を免れたが、同年12月GHQに接収され米国軍婦人宿舎となる。そのため東京YMCAは富士見町の日本基督教神学専門学校校舎へ移転した[3][12]。
・1949年︵昭和24年︶6月 元YMCA協力主事でGHQ民間情報教育局青年部長として再来日していたラッセル・L・ダーギンの尽力もあり、会館が返還される[3]。
・1992年︵平成4年︶ 会館の本館ビルが改築工事を行う。
・2003年︵平成15年︶ 約58億円の債務を抱えて経営困難に陥り、神田の本部会館を売却する[13]。その後、YMCAは江東区東陽町に本部を移転する[14]。その後、取り壊されて跡地は﹁住友不動産神田ビル﹂ (ベルサール神田)になっている[15]。
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 日本の超教派の青年運動として出発し、諸教会、諸会派の伝道や奉仕の具体的な活動のために協力する超教派的な支えた存在として誕生した。会長が小崎弘道、役員は井深梶之助、田村直臣、植村正久であった。︵高橋 2003, pp. 128︶、︵高橋 2003, pp. 249︶
(二)^ 内村鑑三、植村正久、小崎弘道、柏井園の4名が集まった。(鈴木 2006, pp. 117–118)
(三)^ これが﹁日本初の創作オペラ﹂の上演となる。
(四)^ ジョン・ダンロップ (宣教師)はD・C・グリーン、フォス[要曖昧さ回避]、別所梅之助、松山高吉と共に会堂に出席した。議長はグリーンが選ばれ、ダンロップは別所と共に書記に選ばれた。3月14日には二回目の会堂が開かれて、ヘンリー・ルーミスが4月より参加、川添万寿得と藤井寅一が委員として追加されることが決まった。︵鈴木 2006, pp. 120︶
(五)^ 自宅から会館までの葬列(小林富次郎葬儀)を撮影した映像は日本最初の短編ドキュメンタリー映画になる。
(六)^ 現在の明治大学では10月28日を﹁校歌の日﹂と定めている︵明治大学史資料センター ﹃明治大学140年小史﹄ DTP出版、2021年、212-213頁︶。
出典[編集]
- ^ 落合 1988, pp. 923
- ^ a b 東京YMCAの歴史
- ^ a b c d 東京YMCA『日本初の室内温水プール創設』
- ^ 東京YMCA『YMCA 健康教育の歴史』
- ^ 鈴木 1988, pp. 47
- ^ 勝地 2015
- ^ 鈴木 1988, pp. 51
- ^ 鈴木 1988, pp. 55
- ^ 鈴木 1988, pp. 57
- ^ 鈴木 1988, pp. 59
- ^ 東京で百五十軒が新たに開店(昭和19年2月24日 毎日新聞(東京 夕刊))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p369 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 桑田秀延 『東京神学大学二十年史』 東京神学大学、1964年、16頁
- ^ “東京YMCA、負債58億で神田の本館売却へ”. 「読売新聞」(2002年5月14日)の転記. 2016年12月30日閲覧。
- ^ 澤田 1988, pp. 859
- ^ “旧・東京YMCAホテルTokyo YMCA Hotel(N/A)東京都23区&周辺のホテル&旅館”. 東京情報BOXbyediaport. 2016年12月30日閲覧。