東周列国志
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﹃東周列国志﹄︵とうしゅうれっこくし︶は、清代の蔡元放によって改編された長編歴史小説。23巻108回。中国では明代の﹃三国志演義﹄と並び評される。
西周の滅亡を間近に控えた紀元前789年から始まり、紀元前770年の洛邑遷都︵東周の始まり︶を経て、秦の始皇帝が全国を統一する紀元前221年までに起こった、東周時代500年の諸侯国の興亡を描く。
﹃春秋左氏伝﹄、﹃国語﹄、﹃戦国策﹄、﹃史記﹄などの史書から材料を集めて作られたが、演義小説としては﹃三国志演義﹄ほど普及しなかったらしく、陳舜臣は﹁戦前の神戸の華僑の家では三国志演義はどこにもあったが、東周列国志は余りなかったので、自分の家に借りに来る人がよくいた﹂と自著﹃中国の歴史﹄にて回想している。日本語訳も現在のところ完訳は存在せず、佐藤春夫が翻案した短編小説を書いている程度である。
成立過程[編集]
●元代に成立した﹁列国︵春秋戦国時代の諸侯国︶もの﹂の平話(講談)をもとに、明代嘉靖・隆慶年間︵1522年 - 1572年︶に余邵魚が﹃列国志伝﹄を書く。 ●明末、馮夢竜が﹃列国志伝﹄で史実に合致しない部分を修正補足し、﹃新列国志﹄と改称する。 ●清代乾隆年間︵1736年 - 1795年︶、蔡元放が﹃新列国志﹄に更に修正を加え、﹃東周列国志﹄と改称する。ボリューム︵文字数︶[編集]
﹃東周列国志﹄は﹃三国志演義﹄よりボリュームがある[1]。具体的には92万文字︵﹁中国古典文学普及読本 東周列国志﹂金盾出版社 2004年9月初版︶である。一方、﹃三国志演義﹄は71万7千文字︵﹁教育部全国高等学校中文学科教学指導委員会指定書目 三国演義﹂人民文学出版社 1953年11月初版︶である。あらすじ[編集]
西周末、幽王の無道な政治により、異民族が侵入し、西周は滅びる。幽王の子・平王は都を洛邑に遷都し、東周が始まるが、周の威信は失墜し、周辺の諸侯国が覇を競うようになる。春秋時代の始まりである。覇権争いの結果、最初は斉の桓公、次に宋の襄公、晋の文公 、秦の穆公、楚の荘王 といった覇者が次々登場する。いわゆる﹁春秋の五覇﹂の誕生である。また、南方の呉では闔閭、越では勾践 といった﹁五覇﹂に続く覇王が生まれる。 しかしその後、それぞれの諸侯国の中で家臣が勢力を持ち始め、主君を倒して自ら諸侯になる者も現れた。その典型が、晋の有力家臣である魏氏、韓氏、趙氏の三氏である。この三氏が連合して晋を三分し、BC403年にはそれぞれ独立国として周王室より認定を受ける。完全な下克上の世界、つまり戦国時代の始まりである。 こうして再編成された諸侯国のうち韓、趙、魏、楚、燕、斉、秦が、後に﹁戦国の七雄﹂と呼ばれる。この七雄のうち最初優勢だった魏、趙、斉も、後には次第に衰える。一方、中原からはるか西の辺鄙な土地に国を構える秦は、商鞅 の改革などを経て富国強兵政策を推し進め、急速に勢力を増していく。これに脅威をいだく他の六国は、連合して秦に当たろうとするが、各国の利害が衝突してしまい、協力体制は崩壊。秦はその機会を逃さず、一国ずつ侵食し、秦王・政︵後の始皇帝︶のとき、ついに六国を滅ぼし、中国全土の統一を成し遂げるのである。目次︵部分︶[編集]
全目次︵原文︶はzh:東周列国志の﹁目録﹂に掲載。︵ ︶内は本記事編集者による意訳。※は描かれている時代。
●第1回 周宣王聞謡軽殺 杜大夫化厲鳴冤
︵周宣王童謡に激して物売りを殺し、杜大夫亡霊となって無実を叫ぶ︶
●第3回 犬戎主大鬧鎬京 周平王東遷洛邑
︵犬戎王、周都・鎬京を騒がし、周平王、東の洛邑に遷都する︶
※春秋時代のはじまり
●第84回 智伯決水灌晋陽 豫譲撃衣報襄子
︵智伯、晋陽を水攻めにし、豫譲、趙襄子の衣を斬って智伯の敵討ちする︶
戦国時代のはじまり
●第108回 兼六国混一輿図 号始皇建立郡県
︵六国を併合して一国となし、秦王・政、始皇帝と号して郡県制を確立する︶