死罪 (江戸時代)
死罪︵しざい︶とは、江戸時代に庶民に科されていた6種類ある死刑のうちの一つで、斬首により命を絶ち、死骸を試し斬りにする斬首刑の刑罰のこと。付加刑として財産が没収され、死体の埋葬や弔いも許されなかった。罪状が重い場合は市中引き回しが付加されることもあった。
概要[編集]
盗賊︵強盗︶、追い剥ぎ、詐欺などの犯罪に科された刑罰である。強盗ではなく窃盗の場合でも、十両盗めば死罪と公事方御定書には規定されている。また、十両以下の窃盗でも累犯で窃盗の前科が2度ある場合、3度目には金額に関わらず自動的に死罪となった。しかし、窃盗でも昼間のスリと空き巣は、被害者自身が物の管理ができていなかったことを理由に、死罪が適用されなかった。 重追放︵田畑・家屋敷・家財没収の上、武蔵、山城等の十五か国及び東海道筋、木曽路筋への立ち入り禁止︶以上の重い刑罰は町奉行だけで出すことはできず、老中に上申し、採決を待たねばならず[1]更には将軍の最終決裁を経なければ確定はできない[2]。 試し斬りの際に、斬首後の死骸を載せる台を土壇場といった。このことから、極限まで追い詰められた状態のことを現在でも﹁土壇場﹂と呼ぶようになった。 また、斬首刑自体は1882年︵明治15年︶1月1日に施行された旧・刑法により廃止されるまで残る。 斬首が最後に行われたのは、少なくとも当時の法に適法であった状態で山田浅右衛門による執行の場合は、1881年︵明治14年︶7月27日に市ヶ谷監獄にて強盗目的で一家4人を殺害した岩尾竹次郎、川口国蔵の2人の死刑執行である[3]。また、府県史料で確認できる限り、日本法制史上最後の斬首刑(少なくとも当時の法に適法である)の判決が下されたのは、鳥取県でこの年の12月30日に下された徳田徹夫︵罪状‥徳田を含む6人組により1880年︵明治13年︶12月21日から翌年1月21日の約1か月の間に4件の侵入強盗を起こし、4件目の侵入強盗の際、家主の母を殺害︶である[4]。更に、判決では除族︵士族の身分を剥奪すること︶も付加されている。 そして、事実であるか定かではないが、旧・刑法施行後の1886年︵明治19年︶12月に﹁青森の亭主殺し﹂事件の加害者である小山内スミと小野長之助の公開斬首刑が青森県弘前市の青森監獄前で行われたのが最後という説があり、事実であればこの死刑執行は事実上の斬首刑の最後であると共に、官憲による日本国内における一般刑法犯に対する最後の非合法︵当時の旧・刑法では、非公開絞首刑のみ︶の死刑執行かつ公開処刑となる[5]。死罪による死刑執行数[編集]
少なくとも記録のある江戸時代後期以降の天領に関しては、死罪は6種類ある死刑のうち最も多く執行されている。期間と場所が限定されるが、1862年(文久2年)~1865年(慶応元年)にかけて江戸で15歳以上の男性庶民(武士・公家・僧侶神職・被差別部落民を除く)が執行された死刑(427件)の内、約3分の2(285件)が死罪であった。更に、この死罪で執行された者の内、約6人に1人が市中引き回しが付加されている。そして、1781年(天明2年)~1785年(天明6年)にかけて、大坂町奉行によって執行された死刑(230件)の内、江戸と同じく約3分の2(150件)が死罪であった。更に、この死罪で執行された者の内、約8人に1人が市中引き回しが付加されている[6]。
脚注[編集]
(一)^ 日本放送協会. “江戸時代の奉行は慎重だった? 当時の貴重な﹁裁判記録﹂発見 | NHK”. NHKニュース. 2022年5月1日閲覧。
(二)^ 山本﹃江戸の組織人﹄P82-84
(三)^ 山下 恒夫﹃明治東京犯罪暦 明治元年~明治23年﹄東京法経学院出版、1988年4月1日、148 - 155頁。ISBN 4-8089-4438-3。 NCID BN02158260。
(四)^ 鳥取県 (1881). 鳥取県史︵鳥取県歴史︶ 政治部︵明治14年︶(27-32コマ) (JPEG,PDF) (Report). 国立公文書館. 2021年10月17日閲覧。
(五)^ 手塚 豊﹃刑罰と国家権力 国家的刑罰権と非国家的刑罰権――明治前期の場合に関する一未定稿﹄法制史学会、1960年4月、182 - 185頁。doi:10.11501/2527269。 NCID BN0366777X。
(六)^ 平松義郎﹃近世刑事訴訟法の研究﹄創文社、1960年1月1日、1056-1069頁。doi:10.11501/3033456。ISBN 4423740117。 NCID BN02799356。