殖田謙吉
生誕 |
1870年12月24日(明治3年11月3日) 日本・大分県宇佐郡駅館村字上田 |
---|---|
死没 |
1904年9月4日(33歳没) 日本・長崎県佐世保市 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1894年 - 1904年 |
最終階級 | 海軍少佐 |
殖田 謙吉︵うえだ けんきち、1870年12月24日︵明治3年11月3日︶ - 1904年︵明治37年︶9月4日︶は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少佐。庄屋殖田覚十郎の二男として生まれる。母方姓是恒[2]。大分県宇佐郡駅館村出身。第2次吉田内閣の法務総裁殖田俊吉は甥である[3]。
略歴[編集]
旧海軍機関学校︵横須賀︶から海軍兵学校︵18期︶に編入[4]。海軍大学校、鎮守府参謀を経て日露戦争開戦時は軍令部参謀。後に連合艦隊参謀に転出。黄海海戦において﹁三笠﹂最上艦橋で戦傷を受け、佐世保海軍病院にて死去。伊藤正徳は殖田について﹁有為の参謀であった﹂と評している[5]。負傷・死亡[編集]
1904年︵明治37年︶8月10日、最上艦橋で指揮をとっていた殖田は午後6時30頃に、前部艦橋左舷のセマホア信号機[6]に敵弾が命中炸裂、その弾片、破片により負傷した。この時、航海士藤瀬慎二郎中尉が即死、他に負傷したのは艦長伊地知彦次郎、参謀小倉寛一郎少佐、中澤少尉︵距離測定器掛︶、長谷川清候補生︵艦長伝令︶ら十数名である[7]。殖田の負傷は右背部失肉創兼肩甲骨骨折、右頬部座創、上顎骨折など数箇所におよび、12日には﹁西京丸﹂に移り14日に佐世保海軍病院に入院した。感染症を防ぐ処置などがとられたが、翌日から高熱を発して人事不省に陥る。一時体温は下がったものの衰弱が進み、9月4日午前1時に死去した。参謀交代の内情[編集]
軍令部は二回の旅順口閉塞作戦が失敗したことから連合艦隊の強行作戦方針に懸念をもった。4月3日、今後の作戦を打ち合わせるため軍令部参謀の財部彪と殖田を﹁三笠﹂に派遣[8]。結局、第1艦隊先任参謀の有馬良橘を実質的に更迭[9]し、開戦劈頭に負傷・後送された第1艦隊参謀松村菊勇の代行をしていた第2艦隊参謀の飯田久恒も第2艦隊第4戦隊参謀に異動、秋山真之を先任に格上げし両者の後任として殖田と佐世保鎮守府参謀の小倉を第1艦隊参謀に任命した。有馬は参謀としての職を弁えず自ら閉塞戦の指揮官として志願する等、猪武者的な所、飯田は休校中の海大の教官である秋山に逆らえないイエスマン的な性格が問題とされたという。 以上のような経緯で、碑文に示す通り温厚で協調性があり、かつ秋山に対して言うべき時は、断固として直言できる沈毅な強い意志をもつ殖田が第1艦隊参謀を命じられた。海軍首脳が相当苦慮した人事、人選であり、秋山の押さえとして殖田に期待すること大であった。 結局は小倉も負傷により異動しており︵回復後、防護巡洋艦高砂の航海長として復帰するも沈没時に戦死︶、日本海海戦では飯田と新任の清河純一が秋山の補佐を担った。年譜[編集]
●1883年︵明治16年︶‐上京して母の弟是恒真楫[10]宅に寄宿し、東京の学校にて数学、英学を学ぶ。 ●1886年︵明治19年︶10月‐機関学校入校︵三十一人中の11番 ﹁是恒謙吉﹂名で受験︶ ●1887年︵明治20年︶7月‐海軍兵学校︵18期︶に編入 ●1891年︵明治24年︶7月‐海軍兵学校卒業︵8席[11]︶ ●1891年︵明治24年︶9月‐比叡にて豪州方面の遠洋練習航海へ︵翌年5月品川帰港︶ ●1894年︵明治27年︶3月‐少尉任官 ●1894年︵明治27年︶4月‐砲術練習所学生 ●1894年︵明治27年︶6月‐混成旅団の仁川への輸送揚陸作戦に熊本丸︵運送船︶監督官として参加[12] ●1895年︵明治28年︶1月‐山東半島への輸送揚陸作戦に広島丸︵運送船︶監督官として参加[13] ●1895年︵明治28年︶12月‐砲術練習所学生 ●1896年︵明治29年︶12月‐八島回航委員︵英国出張︶ ●1897年︵明治30年︶11月‐帰朝 ●1897年︵明治30年︶12月‐大尉任官 ●1898年︵明治31年︶7月‐愛宕分隊長 ●1899年︵明治32年︶6月‐龍田航海長 ●1900年︵明治33年︶5月‐海軍大学校入校︵甲種3期︶ ●1902年︵明治35年︶5月‐中野タツ嬢[14]と結婚 ●1902年︵明治35年︶7月‐海軍大学校卒業 ●1903年︵明治36年︶5月‐舞鶴鎮守府参謀[15] ●1903年︵明治36年︶9月‐少佐任官 ●1904年︵明治37年︶1月‐軍令部参謀 ●1904年︵明治37年︶2月‐6日午前9時10分、佐世保出張中の殖田から﹁佐世保鎮守府が葛城に長崎において露国商船の捕獲を命じたる旨﹂の電報を軍令部へ発電︵7日に解放を命ず︶ ●1904年︵明治37年︶4月‐第一艦隊参謀[16] ●1904年︵明治37年︶5月‐24日、金州湾沿岸の砲撃︵陸軍の南山攻撃の支援︶のため参謀として筑紫に乗り組み、裏長山列島の錨地を出港する。栄典[編集]
●1903年︵明治36年︶5月20日 - 従六位[17]脚注[編集]
(一)^ ﹁海軍兵学校出身者戦死者芳影録﹂84ページ
(二)^ 雲栖寺︵現住職滝口氏︶境内の顕彰碑に﹁君諱謙吉殖田氏 考諱覚十郎妣是恒氏 君性沈毅温厚幼立志…﹂︵題字東郷海軍大将 明治44年3月︶とある。
(三)^ ﹁日も行く末ぞ久しき﹂︵昭和14年松山基範 望郷の旅︶前中一晃 P13
(四)^ ﹁海軍兵学校沿革﹂P413-P415
(五)^ ﹃大海軍を想う﹄188頁
(六)^ 日本海海戦時は﹁臨戦準備﹂の段階で、セマホア信号機を取り外す。
(七)^ この時、東郷司令長官、島村参謀長、上野航海長、加藤砲術長も最上前艦橋で指揮をとっていたが、秋山参謀はいなかった。﹁特務士官が語れる日露海戦の思ひ出話其一 昭和4年 海軍省教育局﹂より。記念艦三笠に﹁勇士戦死のところ﹂の銅板がある。
(八)^ 極秘明治三十七八年海戦史/連合艦隊戦時日誌
(九)^ 4月20日、有馬は大本営付となり三笠退艦。
(十)^ 大蔵省租税課に出仕。麹町区元園町に居宅を構える。機関学校受験時の身元引受人。後に衆議院議員となる。
(11)^ ﹃海軍兵学校沿革﹄﹁明治二十四年七月十七日﹂
(12)^ アジア歴史資料センター﹁海陸軍雇入商船の配乗員﹂C08040473400
(13)^ ﹃明治28年1月1日 現在艦船艇其他配員表﹄
(14)^ 元神奈川県令中野健明の娘
(15)^ ﹁官員録/職員録﹂明治36年5月
(16)^ ﹁三笠戦時日誌﹂、﹁連合艦隊戦時日誌﹂明治37年4月27日
(17)^ ﹃官報﹄第5963号﹁叙任及辞令﹂1903年5月21日。
参考文献[編集]
- 宇佐郡教育会「宇佐郡誌」1929
- アジア歴史資料センター
- 『軍艦三笠戦時日誌1(10)』(Ref.C09050337000、防衛省防衛研究所)画像2枚目
- 『明治28年1月1日 現在艦船艇其他配員表』(Ref.C08040637100、防衛省防衛研究所)画像20枚目
- 海軍義済会「日本海軍士官総覧」1943
- 海軍軍令部「極秘版 明治三十七八年海戦史」1908
- 海軍省「公文備考」
- 「海軍兵学校沿革」1968
- 伊藤正徳『大海軍を想う』文藝春秋新社、1956年。