浦山助太郎
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浦山助太郎 うらやま すけたろう | |
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生年月日 | 1865年12月11日 |
出生地 | 日本 富山県[注 1] |
没年月日 | 1966年 |
出身校 | 明治義塾法律経済科卒業 |
前職 | 桂川電力常務取締役 |
所属政党 |
(無所属→) 立憲政友会 |
配偶者 | 浦山とく |
選挙区 | 青森県第7選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1924年5月 - 1928年1月21日 |
浦山 助太郎︵うらやま すけたろう、1865年12月11日︵慶応元年10月24日[1]︶ - 1966年︵昭和41年︶[2]︶は、明治から昭和時代の政治家、実業家。衆議院議員︵1期︶。八戸市名誉市民[3]。旧姓は夏目[2]。
経歴[編集]
のちの富山県に生まれる[2][注 1]。のち浦山太吉の二女とくを妻に迎え、その養子となり、姓を改めた[2]。1886年︵明治19年︶明治義塾法律経済科を卒業[4]。同校の同窓生であった青森県三戸郡小中野村︵小中野町を経て現八戸市︶の助役・細越輝雄宅に一泊したのが八戸との縁となった[2]。 津軽鉄道社員[注 2]、青森県農工銀行行員を経て[5]、1903年︵明治36年︶東京市街鉄道に入社し、1912年︵大正元年︶桂川電力に招かれ、1917年︵大正6年︶常務取締役に就任する[2]。以来、旭電化工業︵現ADEKA︶、鐘ヶ渕電力、忍野水力電気、吾妻川電力、東信電気、昭和肥料︵昭和電工の前身のひとつ︶、犀川電力、東洋水力電気、秩父電気工業などの会社を創立し、取締役や監査役に就任した[2]。さらに、1925年︵大正14年︶には電気協会理事となり、1933年︵昭和8年︶同副会長、1940年︵昭和15年︶東信電気副社長などを務めた[2]。 政界では、1924年︵大正13年︶5月の第15回衆議院議員総選挙では青森県第7区から立憲政友会所属で出馬し当選[4]。任期中の1924年︵大正13年︶5月の八戸大火の復興に尽力した[3]。戦時中は八戸に疎開し、戦後は南部鉄道の再建に当たるが失敗した[3]。ほか、八戸市立図書館書庫の建設、八戸商業学校︵現青森県立八戸商業高等学校︶の校舎改築の折には私費を投じた[3]。空襲で東京の自宅を失い、晩年は小田原市の別荘に住み、101歳の長寿を全うした[3]。著作[編集]
- 他『八戸栞草』青霞堂、1894年。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ 衆議院事務局 1924, 21頁.
- ^ a b c d e f g h 東奥日報社 2002, 77頁.
- ^ a b c d e 東奥日報社 2002, 78頁.
- ^ a b 衆議院、参議院 1962, 77-78頁.
- ^ 衆議院、参議院 1962, 78頁.