海老名季昌
海老名 季昌 | |
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生誕 |
1843年 陸奥国会津藩天寧寺町 |
死没 |
1914年8月23日 大阪 |
出身校 | 日新館 |
職業 |
会津藩家老 若松町長 |
配偶者 | 海老名リン |
海老名 季昌︵えびな すえまさ/えびな としまさ、1843年︵天保14年︶- 1914年︵大正3年︶8月23日︶は、幕末の会津藩家老。明治時代の警察官、地方官吏である。幼名秀次郎、通称郡治。郡次とも表記される。
黒船来航
父は海老名季久。海老名家は家禄250石であった。季久は1851年︵嘉永4年︶房総半島の警備を命じられた会津藩の軍事奉行として出動。その後品川砲台(金杉陣屋)、蝦夷地警備でも軍事奉行として活躍した。海老名は父と行動を共にし、ペリー来航の際は、父に貰った陣羽織を手に開戦に備えていた。
パリ万博
海老名は、パリ万国博覧会に使節団として派遣される徳川昭武の随員として抜擢され、横山常守と行を共にした。1867年2月15日︵慶応3年1月11日︶、フランス船アルファ号に乗船し横浜を出港。4月11日︵3月7日︶、パリへ到着した。パリでは先に渡欧していた同藩の山川浩、田中茂手記[2]と再会している。欧州諸国の視察を命じられていた海老名は、イギリス、プロシャ、オランダ、ロシア、その他数カ国を歴訪した。[3]
しかし大政奉還が行われるなど会津藩に危機が迫り、11月28日︵11月3日︶に帰国した。
会津戦争