清月輝
きよづき てる 清月 輝 | |
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本名 | 越川 長子 |
別名義 | シショウ チョウコ |
生年月日 | 1947年9月23日 |
没年月日 | 1970年8月12日(22歳没) |
出生地 | 日本・和歌山県 |
死没地 | 台湾・台北市松山区 |
国籍 | 日本 |
民族 | 日本人 |
職業 | 女優 |
ジャンル | 宝塚歌劇団 |
活動期間 | 1967年 - 1970年 |
清月 輝︵きよづき てる、1947年9月23日 - 1970年8月12日︶は、かつて宝塚歌劇団花組に在籍していたタカラジェンヌ︵両役・53期生︶。本名、越川 長子。後述の航空禍により在団のまま死去。
略歴・人物[編集]
和歌山県出身。1964年に和歌山県立星林高等学校1年中退後[1]、宝塚音楽学校に入学してレッスンに励む。 1967年3月に音楽学校を卒業した後、そのまま宝塚歌劇団53期生として宝塚歌劇団に入団。星組公演﹃世界は一つ[2]﹄で初舞台を踏む。入団時の成績は54人中24位[2]。1967年12月9日[2]、花組配属。 当初は男役での出演が多かったが、元々物静かで優しく上品な性格で、スタイルが良く美貌にも恵まれていたため、1968年11月に池田銀行︵現 池田泉州銀行︶の初代イメージガールに選ばれ、知名度と人気が急上昇していった。また日本舞踊、ダンス、演技の能力も非常に高く、周囲からも評価され、1969年5月に宝塚大劇場で行われた﹃鐘つき与七﹄では入団3年目にして異例の主役︵娘役のおさよ︶に抜擢され、両役をこなす事の出来る53期生花組のホープとして今後の活躍が期待された。 しかし、その翌年の1970年8月12日、夏休みの休暇を取って単身で台湾旅行に出かけた際、日本に帰国するために花蓮から台北に向かう途中、搭乗していた飛行機が台北松山空港近くで墜落事故︵中華航空206便墜落事故︶を起こしてしまい、事故に巻き込まれて死去。享年22。没後[編集]
遺体は現地で荼毘に付され、遺骨は8月17日に大阪国際空港に到着。宝塚を回った後に郷里の和歌山の実家に戻り、無言の帰宅を果たした。その後8月20日に告別式が営まれ、宝塚歌劇団の53期生を中心とする多数のタカラジェンヌ、職員、音楽学校の生徒が参列した。期待の星であった清月の死は誰からも深く惜しまれ、その無残に変わり果てた姿に遺族も参列者も深く嘆き悲しみ、最後まで涙や嗚咽が絶えなかったと言う。関連項目[編集]
脚注[編集]
- ^ 叔母(清月輝)の事を書いてみる|Riricoのブログ・猫とアロマと占いと♪
- ^ a b c 監修:小林公一『宝塚歌劇100年史 虹の橋 渡り続けて(人物編)』pp.74-75(阪急コミュニケーションズ、2014年4月1日)。ISBN 9784484146010
- ^ koshikawakazumaの2013年07月17日のツイート、2023年2月23日閲覧。