湯本文彦
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人物情報 | |
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別名 | 鉄宇、墨囚窟[1]、芳邨舎[2][3]、碧雲湖館[4][5] |
生誕 |
湯本増之助 天保14年6月7日(1843年7月4日) 因幡国邑美郡鳥取 |
死没 |
1921年(大正10年)9月25日 京都府京都市上京区相国寺門前町 |
国籍 | 大日本帝国 |
出身校 | 鳥取藩学館 |
配偶者 | すず |
両親 | 湯本信好、なか |
子供 | 幸、良造 |
学問 | |
活動地域 | 鳥取市、京都市 |
研究分野 | 歴史学 |
研究機関 | 島根県、京都府、京都市参事会、京都市美術工芸学校、東京帝国大学史料編纂所、池田侯爵家 |
称号 | 正七位勲六等 |
主要な作品 | 『平安通志』『鳥取藩史』 |
影響を受けた人物 | 堀敦斎 |
影響を与えた人物 | 西田直二郎[6] |
湯本 文彦︵ゆもと ふみひこ、天保14年6月7日︵1843年7月4日︶ - 1921年︵大正10年︶9月25日︶は戦前日本の歴史家。鳥取藩尚徳館句読頭、宇倍神社権宮司、島根県松江中学校・師範学校長、鳥取県米子中学校長、京都市美術工芸学校教授、東京帝国大学史料編纂員主事、京都帝室博物館学芸委員。京都市参事会﹃平安通志﹄編纂委員会主事、池田侯爵家﹃鳥取藩史﹄編纂長。平安京の再現研究で知られる。
湯本文彦の比定による大極殿遺阯碑。1895年︵明治28年︶10月28日 建立。上京区千本通丸太町上ル西側内野児童公園内[15]。現在は南東の千本丸太町交差点付近に比定される[16]。
1888年︵明治21年︶12月25日京都府雇として庶務課に勤務した[10]。1894年︵明治27年︶2月2日京都府属となり、内務部第一課庶務掛、1895年︵明治28年︶4月2日第六課、1896年︵明治29年︶4月1日府知事官房内記掛を歴任し、1899年︵明治32年︶7月7日第一課社寺掛を兼務した[10]。8月31日京都市美術工芸学校教授[10]。
1902年︵明治35年︶4月5日府知事官房記録掛となり、6月11日宮内省京都帝室博物館書記を兼ね、9月26日美術工芸学校を退職した[10]。1904年︵明治37年︶1月東京帝国大学史料編纂員、1905年︵明治38年︶8月22日史料編纂員主事、1909年︵明治42年︶4月20日京都帝室博物館学芸委員、1914年︵大正3年︶帝室博物館学芸委員[10]。
1915年︵大正4年︶12月28日病気により退官した[10]。1921年︵大正10年︶夏寝たきりとなり、9月25日上京区相国寺門前町632番地の自宅[17]で死去し、1907年︵明治40年︶10月13日自ら選んだ愛宕郡下鴨村共同墓地[18]に土葬された[1]。
経歴[編集]
鳥取藩[編集]
天保14年︵1843年︶6月7日因幡国鳥取に鳥取藩士湯本信好の長男として生まれた[7]。幼名は増之助[8]。幼くして弟武彦と堀敦斎に儒学を学び、安達清風と交流した[9]。 安政5年︵1858年︶3月11日藩学館温書司から教授助に進み、万延元年︵1860年︶3月11日句読方と改称、文久2年︵1862年︶8月22日句読方頭に進んだ[10]。9月29日大小姓御雇となり、藩主の上京に随行し[10]、年末安政の大獄犠牲者を祀る会合に出席し[11]、文久3年︵1863年︶帰国し、1月26日句読頭に復帰した[10]。2月18日上京し、4月10日孝明天皇の石清水八幡宮行幸において徳大寺公純随身を務めた[10]。4月29日帰国し、9月7日浜坂台場警衛を命じられた[10]。 元治元年︵1864年︶2月29日学校経義懸り討論方[10]。7月3日長州藩御見舞使者として伊丹造酒之助に同行し、帰途上京し、7月28日池田徳定の帰国に随行した[10]。8月21日退職後、12月9日句読頭に復帰し、慶応2年︵1866年︶3月15日から12月28日まで文場締役寮生懸りを兼務した[10]。 明治元年︵1868年︶7月27日義衛隊二番組御雇[10]。明治2年︵1869年︶10月27日総学局皇学寮中教正、11月18日大教正となり、皇学寮検査兼漢学寮詩文督促を兼ねたが、明治3年︵1870年︶8月29日廃校により退職した[10]。島根県[編集]
明治5年︵1872年︶8月24日宇倍神社権祢宜[10]、1877年︵明治10年︶1月17日権宮司となり、1879年︵明治12年︶12月辞職した[8]。 1879年︵明治12年︶11月島根県令境二郎に招かれ[12]、1880年︵明治13年︶1月9日島根県[13]庶務課修史御用係として[10]県史編纂を引き受けたが、修史部の独立を訴え[14]、8月10日修史科長兼秘書御用係となった[10]。10月11日秘書科庶務を担当し、1882年︵明治15年︶2月14日学務課長を兼ねた[10]。 1882年︵明治15年︶9月26日島根県松江中学校長兼・松江師範学校長を兼任し、1883年︵明治16年︶1月31日学校、12月24日県を退職した[10]。1884年︵明治17年︶10月25日鳥取県米子中学校長兼二等教諭となったが、1886年︵明治19年︶8月19日中学校令により廃止された[10]。京都府[編集]
著書[編集]
遺稿[編集]
●﹃鳥取藩史﹄編纂関係資料集 - 1958年︵昭和33年︶孫上野恵から鳥取大学に寄贈[30][31]。 ●湯本文彦関係資料 - 1976年︵昭和51年︶桐生市湯本絹子から鳥取県立博物館に寄託。﹃鉄宇筆籙﹄﹃芳邨舎拙稿﹄等[32]。 ●湯本文彦遺稿 - 京都市相国寺門前町上野務家所蔵。﹃鉄宇文稿﹄﹃墨囚文稿﹄﹃依嘱稿叢﹄等[33]。栄典[編集]
●1910年︵明治43年︶12月26日 勲八等瑞宝章[10] ●1911年︵明治44年︶5月1日 正八位[10] ●1915年︵大正4年︶10月1日 従七位[10] ●1916年︵大正5年︶2月 勲七等瑞宝章[10] ●1920年︵大正9年︶2月 勲六等瑞宝章[10] ●1921年︵大正10年︶8月20日 正七位[1]先祖[編集]
(一)湯本六郎兵衛 - 鳥取藩歩行[34]。 (二)湯本小平次︵平蔵、市郎左衛門、弥十郎︶ - 町横目、蔵目付、中小姓[34]。 (三)湯本政之助︵平三郎︶ - 児小姓[34]。 (四)湯本又次郎︵弥十郎、太郎兵衛︶ - 中小姓、祐筆、銀札場目付[34]。 (五)湯本又三郎︵六郎兵衛︶ - 中小姓、表小姓、近習[34]。 (六)湯本又三郎︵廉五郎、信好︶[34]家族[編集]
●父‥湯本信好 - 堀嘉房次男。鳥取藩財務官僚[34]。 ●母‥なか – 湯本六郎兵衛長女[21]。 ●弟‥湯本武彦 - 勤王家[7]。 ●妻‥すず – 1928年︵昭和3年︶8月1日没[1]。 ●三女‥幸︵ゆき︶ - 1956年︵昭和31年︶5月18日没[1]。 ●婿養子‥良造 – 1933年︵昭和8年︶5月25日没[1]。 ●孫‥恵︵めぐみ︶ - 国文学者上野務と結婚[1]。脚注[編集]
(一)^ abcdefg角田 1977, p. 747.
(二)^ 居住地の鳥取市吉方に因る。
(三)^ 鳥取県立博物館 1982, p. 8.
(四)^ 鳥取県立博物館 1982, p. 11.
(五)^ 宍道湖の別名に因る。
(六)^ 角田 1977, p. 750.
(七)^ ab山中 1960, p. 101.
(八)^ ab山中 1960, p. 102.
(九)^ 鳥取県立博物館 1982, p. 14.
(十)^ abcdefghijklmnopqrstuvwxyzaaab鳥取県立博物館 1982, pp. 17–20.
(11)^ 小林 2005, pp. 112–113.
(12)^ 鳥取県立博物館 1982, p. 16.
(13)^ この時期鳥取県を併合。
(14)^ 山中 1960, pp. 102–104.
(15)^ 大極殿遺址碑 - 京都市歴史資料館京都のいしぶみデータベース
(16)^ 平安京オーバレイマップ - 立命館大学アート・リサーチセンター
(17)^ 湯本家 - 京都市文化市民局﹁京都を彩る建物や庭園﹂
(18)^ 左京区下鴨半木町京都府立植物園グラウンド東隣。大乗寺管理。
(19)^ 平安通志 - 京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ 2019年11月22日閲覧。
(20)^ 小林 2005, pp. 128–129.
(21)^ ab角田 1977, p. 745.
(22)^ 角田 1977, p. 748.
(23)^ NDLJP:782187
(24)^ NDLJP:812683
(25)^ NDLJP:784580
(26)^ NDLJP:765593
(27)^ 角田 1977, p. 746.
(28)^ 山中 1960, pp. 106–113.
(29)^ 山中 1960, p. 112.
(30)^ 山中 1960, p. 110.
(31)^ 鳥取県立博物館 1982, pp. 2, 20–21.
(32)^ 鳥取県立博物館 1982, pp. 1–13.
(33)^ 伊東 1995.
(34)^ abcdefg鳥取県立博物館 1982, p. 13.