玉利喜造
玉利 喜造︵たまり きぞう、1856年5月28日︵安政3年4月25日[1]︶ - 1931年︵昭和6年︶4月21日[2]︶は、日本の農学者。貴族院勅選議員。
経歴[編集]
鹿児島県出身。1880年︵明治13年︶、駒場農学校を卒業。農務局編輯に従事し、さらに駒場農学校助教授に任命された[1]。1885年︵明治18年︶よりアメリカ合衆国に留学し、ミシガン州立農学校、イリノイ州立大学で学んだ[3]。1887年︵明治20年︶に帰国してからは、東京農林学校教授、帝国大学農科大学助教授、同教授を歴任した[1]。1899年︵明治32年︶、農学博士の学位を得た[1]。1903年︵明治36年︶、盛岡高等農林学校校長に就任し、1909年︵明治42年︶に鹿児島高等農林学校校長に転じた[1]。1922年︵大正11年︶2月2日に貴族院議員に勅選され[4]、鹿児島高等農林学校名誉教授の称号を得た[3]。 その他、大日本農会幹事・参事・常設議員、帝国農会特別議員・顧問などを歴任した[3]。1931年4月、貴族院議員在任中に死去した[5]。栄典[編集]
●1920年︵大正9年︶4月10日 - 従三位[6]著書[編集]
●﹃農家速算﹄有隣堂、1883年。 ●﹃養蜂改良説﹄有隣堂、1889年。 ●﹃実用倫理﹄弘道館、1909年。 ●﹃内観的研究 邪気・新病理説﹄実業之日本社、1912年。 ●﹃内観的人類進化説﹄育英書院、1914年。親族[編集]
●兄 玉利親賢 - 海軍中将[1]脚注[編集]
参考文献[編集]
●人事興信所編﹃人事興信録 第5版﹄人事興信所、1918年。 ●﹃貴族院要覧︵丙︶﹄昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。 ●﹁故玉利喜造叙勲ノ件﹂ アジア歴史資料センター Ref.A10113088000 ●﹃玉利喜造先生伝﹄玉利喜造先生伝記編纂事業会編、昭和49年、︵鹿児島大学農学部内︶公職 | ||
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先代 (新設) |
盛岡高等農林学校長 1903年 - 1909年 |
次代 佐藤義長 |