狩野揆一郎
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狩野 揆一郎︵かのう[1] / かの[2] きいちろう、1850年6月24日︵嘉永3年5月15日[1]︶- 1893年︵明治26年︶3月5日[1][2][3]︶は、明治期の官吏、実業家、政治家。衆議院議員。名・順、名・天佑、号・尚堂、通称・揆一郎[4][5]。
経歴[編集]
下総国印旛郡山田村[1][4][5]︵千葉県[2]印旛郡山田村、六合村[3][5]、印旛村[1]を経て現印西市︶で、豪農、酒醸造業を営む狩野家に生まれた[1]。佐倉の郷儒・島田から学び、さらに江戸の安井海保に師事して漢学を修めた[1][2][4][5]。 廃藩置県後、印旛県から里正、戸長に任じられ[1][2][4][5]、1873年︵明治6年︶10月、印旛・南相馬郡学区取締に就任[1][4][5]。 1876年︵明治9年︶内務省に出仕し[1][2][3][4][5]、図書局、戸籍局で勤務した[1][4][5]。1880年︵明治13年︶千葉県に転じ、庶務、学務を担当[1][4][5]。1882年︵明治15年︶記録課長に就任し[1][2][3][4]、公文書整理、県治統計表編纂を担当して[1][4][5]、同年8月に辞職した[1][4][5]。 印旛・下埴生・南相馬三郡町村連合会が開設され議員に就任[1][4][5]。1883年︵明治16年︶10月、補欠選挙で千葉県会議員に選出され[1][4][5]、1892年︵明治25年︶3月まで在任し[1]、この間、同常置委員、徴兵参事員、地方衛生委員などを務めた[1][2][3][4]。その他、六合村会議員にも在任した[5]。 また、1887年︵明治20年︶総州鉄道創立に創立委員として参画し、1889年︵明治22年︶総武鉄道に合併して現在の総武本線建設の基礎となった[1][2][3][5]。房総新聞の設立にも参画した[2][3][5]。 1890年︵明治23年︶7月、第1回衆議院議員総選挙︵千葉県第2区、立憲改進党︶で落選し[6]、1892年︵明治25年︶2月の第2回総選挙︵千葉県第2区、議員集会所︶で当選し[1][6]、衆議院議員に1期在任した[2][3]。議員在任中の1893年3月に死去した[7]。脚注[編集]
参考文献[編集]
- 中村尚武『房総名士叢伝 前編』中村尚武、1889年。
- 大久保利夫『衆議院議員候補者列伝 : 一名・帝国名士叢伝 第2編』六法館、1890年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 『千葉県議会史:議員名鑑』千葉県議会、1985年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。