王含
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生涯
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凶暴で非行が多かったと伝わる。王敦の出世に伴って出世し、荊州刺史・征東大将軍・都督揚州江西諸軍事になる。永昌元年︵322年︶に王敦が東晋に対して反乱を起こすと同調し、驃騎大将軍・開府儀同三司となった。
太寧2年︵324年︶、明帝が王敦を討伐するべく兵を出した。この際、王敦は重病に倒れていたため、代理として王含が元帥となり、7月に5万の軍勢を率いて首都建康に迫った[2]。しかし明帝は自ら諸軍を率いて親征し、1000人の兵を王含軍の陣に夜襲したため、王含は敗北した[2]。この時、王敦は敗報を聞いて﹁兄は老いぼれ下女のように役立たずだ﹂と憤慨して自ら陣頭に立とうとしたが、間もなく失意の内に死んだ[2]。このため王含は陣営を焼いて夜中に逃走。荊州にいた従弟の王舒︵叔父王会の子︶の下に走ったが、長江に沈められて溺死した。
王含の母
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唐代の小説﹃宣室志﹄[3]には、王含の母が狼に変身した話が載っている。
王含の母は金氏といい、胡人の出だった。弓馬に長け、馬で森へ分け入っては獣を狩り、人々に恐れられていた。そんな金氏も、70歳を超えると老いと病で衰え、部屋から出なくなった。
ある夕方、金氏の部屋から狼が飛び出て、夜明け前に帰ってきた。そんなことが2夜続いた。次の朝、金氏の食事に鹿粥を出すと、金氏は﹁生でよこせ﹂と言い、生で食い尽くした。この事件は家人の話題になり、金氏は恥じ入った。その夕方にも狼が飛び出て行ったが、帰って来ることはなかった。
— ﹃宣室志﹄第8巻﹁王含﹂より要約