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田中 義廉︵たなか よしかど、天保12年2月11日︵1841年4月2日︶ - 明治12年︵1879年︶10月3日︶は日本の洋学者、教科書編纂者。号は天口酔史。博物学者の田中芳男は実兄。
信濃国伊那郡飯田城下︵現在の長野県飯田市︶に医師・田中隆三︵如水︶の六男として生まれた。幼名は大輔。兄の芳男とともに名古屋の伊藤圭介の門下となり、蘭学や医学を学ぶ。安政6年︵1859年︶江戸に出て、林洞海に蘭学や本草学を学ぶ。また海軍兵学と蒸気機関の研究に専念し、英語やフランス語を修めた。慶応3年︵1867年︶に幕府に出仕し、幕府海軍士官となる。同4年︵1868年︶の上野戦争では彰義隊に属した。明治2年︵1869年︶には新政府の海軍御用掛となって海軍操練所の設立に協力し、兵学大助教に進むが、学制発布を受けて、同5年︵1872年︶には文部省に転属し、小学校教科書の編纂に着手し、﹁小学読本﹂を発行。翌年︵1873年︶退官後も、従前の事業に専念し、同7年︵1874年︶﹁小学日本文典﹂、同8年︵1875年︶﹁万国史略﹂、同10年︵1877年︶﹁日本史略﹂﹁物理新編﹂など多くの教科書を手掛けた。同11年︵1878年︶教育社を設立して﹁内外教育新報﹂を発行。墓所は青山霊園(1イ4-6)
- 村沢武夫 著『近代日本を築いた田中芳男と義廉』 1978年
- 飯田市美術博物館 編『日本の近代化に挑んだ人びと』「近代化に挑んだ偉人たち1 田中芳男 田中義廉」 2016年
- 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社出版局 1994年