相良頼紹
相良 頼紹︵さがら よりつぐ、嘉永6年12月25日︵1854年1月23日︶ - 大正13年︵1924年︶3月12日[1]︶は、明治時代の華族。人吉藩14代藩主相良長福の長男。幼名、武之進。従五位、子爵、貴族院議員。
頼紹が生まれた翌年に父が没したため︵数えで2歳︶、叔父の頼基が15代藩主となる。後に頼基の養子となる。明治5年︵1872年︶9月2日、従五位に叙任する。同年9月15日、明治天皇に拝謁する。明治8年︵1875年︶5月22日、養父頼基が隠居し、家督を継ぐ。明治9年︵1876年︶12月、宮中祗候となる。その後、華族部長局書記などに歴任する。明治14年︵1881年︶、伊藤博文の憲法調査に随行する。明治17年︵1884年︶7月8日、子爵に叙爵。明治23年︵1890年︶7月10月、貴族院議員に選ばれる[1]。明治30年︵1897年︶7月10日、貴族院議員に再選され[2]、1904年︵明治37年︶7月10日まで2期在任した[1]。大正13年︵1924年︶に死去。頼基の子の頼綱が家督を継いだ。墓所は人吉市願成寺。
大正5年︵1916年︶の﹃時事新報﹄の記事で、東京府東京市麻布区に在住する100万円の資産を有する者として取り上げられるなど、華族のなかでも屈指の資産家であった。
家族[編集]
脚注[編集]
日本の爵位 | ||
---|---|---|
先代 叙爵 |
子爵 (人吉)相良家初代 1884年 - 1924年 |
次代 相良頼綱 |