真野助宗
真野助宗 | |
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時代 | 安土桃山時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 慶長15年から20年の間 |
別名 | 蔵人、蔵人頭、左近、入道宗真 |
主君 | 豊臣秀吉→秀頼 |
氏族 | 真野氏 |
子 | 頼包 |
真野 助宗︵まの すけむね︶は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣家の譜代家臣で、馬廻組頭の七手組の1人。通称は蔵人で、真野蔵人を称したが、左近とも称している。
略歴[編集]
長浜城主時代当初の羽柴秀吉に馬廻として仕えた[1]。近江真野氏の出身と推測される。 天正元年︵1573年︶12月、浅野長吉が120石の扶持を与えられたとき、真野左近は100石の扶持を与えられている[2]。 天正12年︵1584年︶、小牧の戦いに従軍[1]。 ﹃浅野家文書﹄の陣立てによると、秀吉本陣の小姓組七手として佐久間忠兵衛、伊東長久、池田与左衛門、速水守久、佐藤主計頭、尼子六郎左衛門と共に合計4,000を率いた[3]。 天正18年︵1590年︶4月、小田原の役に従軍[1]。遠征では600騎を率いた[4]。帰還後の同年9月18日に聚楽第の毛利邸で行われた宴席で、御相伴衆の折臺に堀田圖書、黒田長政、生駒修理亮[5]と共に列した[6]。 文禄の役では、肥前名護屋城で馬廻衆の駐屯[1]。助宗は文禄年間︵1592-1596年︶に馬廻衆の組頭となった[7]。 文禄4年︵1595年︶の秀吉の草津湯治では岐阜を警備[1]。2名づつの選任で、真野蔵人組とあるので、子の頼包との同役だと思われる。 慶長3年︵1598年︶、秀吉の没後も豊臣秀頼に仕え、大坂七手組頭の1人となり、知行1万石という[1]。 慶長14年︵1609年︶ごろ豊国神社へ石灯籠を寄進している[1]。大坂夏の陣で大坂城落城の際に自決という話もあるが、慶長16年頃から諸将のなかに名前が現れず、大坂の陣の戦前に病死していたと考えられている[8][7]。七手組頭は嫡男の頼包が継いで、大坂の陣を戦った。脚注[編集]
(一)^ abcdefg高柳 & 松平 1981, p. 223.
(二)^ 大日本史料10編19冊76頁.
(三)^ 東京帝国大学文学部史料編纂所 編﹃国立国会図書館デジタルコレクション 大日本古文書. 家わけ第2 (浅野家文書)﹄東京帝国大学、1906年、37頁。
(四)^ 東京帝国大学文学部史料編纂所 編﹁国立国会図書館デジタルコレクション 豊臣秀吉小田原陣陣立﹂﹃大日本古文書. 家わけ 三ノ一︵伊達家文書之一︶﹄東京帝国大学、1908年。
(五)^ 生駒親正の弟。
(六)^ 豊臣秀吉御成日記の同日の条︵毛利家文書︶※東京大学史料編纂所データベースで閲覧可。
(七)^ ab阿部 & 西村 1990, p. 736.
(八)^ 高柳 & 松平 1981, p. 223-224.
参考文献[編集]
- 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、736頁。ISBN 4404017529。
- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、223-224頁。
- 桑田忠親『太閤家臣団』新人物往来社、1971年、89頁。ASIN B000J9GTRU