浅野長政
浅野 長政 | |
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浅野長政像(東京大学史料編纂所蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 天文16年(1547年) |
死没 |
慶長16年4月6日/7日(1611年5月29日/30日) |
改名 | 長吉(初名)→長政 |
別名 | 弥兵衛(通称) |
戒名 | 伝正院殿前霜台功山道忠大居士 |
墓所 |
茨城県桜川市真壁町桜井伝正寺 和歌山県伊都郡高野町高野山悉地院 |
官位 | 従五位下・弾正少弼、従四位下、侍従、贈従三位 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 織田信長→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠 |
藩 | 常陸真壁藩主 |
氏族 | 安井氏→浅野氏 |
父母 |
父:安井重継、母:浅野長詮の娘 養父:浅野長勝、養母:七曲殿 |
兄弟 | 安井氏次(諸説あり)、長政、安井兼継(諸説あり) |
妻 | 長生院 |
子 |
幸長、長晟、栄雲院、養梅院、智相院、長重 養女:多羅尾光定室[1]、船越永景室 |
浅野 長政︵あさの ながまさ︶は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人。浅野家14代当主。常陸国真壁藩初代藩主。
長政は晩年の改名で、初名の長吉︵ながよし︶を名乗っていた時期が長い[注 1]。
浅野長政誕生地碑︵北名古屋市の霊松寺︶
尾張国春日井郡北野[2]に宮後城主・安井重継の子として生まれる[3]。織田信長の弓衆をしていた叔父・浅野長勝に男子がなかったため、長勝の娘・やや︵彌々︶の婿養子として浅野家に迎えられ、のちに家督を相続した。同じく長勝の養女となっていたねね︵寧々、のちの北政所、高台院︶[注 2]が木下藤吉郎︵後の豊臣秀吉︶に嫁いだことから、長吉は秀吉に最も近い姻戚︵舅を同じくする義理の相婿︶として、信長の命で秀吉の与力となる。
天正元年︵1573年︶、浅井長政攻めで活躍し、秀吉が小谷城主[注 3]となると近江国内に120石を与えられた。
浅野長政屋敷跡︵愛知県一宮市、現在は浅野公園になっている︶
慶長5年︵1600年︶、関ヶ原の戦いでは東軍につき、江戸城の留守居を務めた。この功により、慶長11年︵1606年︶に常陸国真壁5万石を与えられ、真壁藩を立藩した。長男の幸長は関ヶ原の戦いで功をあげ、紀伊国和歌山37万石へ加増転封されている。長政自身は江戸幕府の成立後は家康に近侍し、慶長10年︵1605年︶には江戸に移った。
慶長16年︵1611年︶4月7日︵4月6日とも︶、長政は真壁陣屋[注 6]にて死去した。享年65、没後は高野山悉地院に遺体を納めた。真壁5万石は三男・長重が継いだ。
生涯[編集]
家督相続から織田家臣へ[編集]
豊臣家臣として[編集]
信長の死後は秀吉に仕え、天正11年︵1583年︶の賤ヶ岳の戦いで戦功を挙げて、近江国大津2万石を与えられる[注 4]。 天正12年︵1584年︶、京都奉行職となり、のちに豊臣政権下の五奉行となる。長吉は、その卓越した行政手腕を買われて秀吉に命ぜられて太閤検地を実施する。また、東国の大名との関係も深く、豊臣政権が諸大名から没収した金銀山の管理を任されていた。 天正14年︵1586年︶、秀吉の妹・朝日姫が徳川家康の正室として迎えられた際は、浜松まで赴いた。 天正15年︵1587年︶、九州平定などでも従軍して活躍し、同年9月5日、若狭国小浜8万石の国持ち大名となる。 天正16年︵1588年︶、従五位下・弾正少弼に叙任される。関東平定では忍城の戦いに参加し、攻城戦終盤や戦後処理では石田三成に代わって、長政が主導的な役割を果たしていくことになる[4]。天正18年︵1590年︶の奥州仕置では実行役として中心的役割を担った。取次役として南部信直との関係を強め、葛西大崎一揆や九戸政実の乱へ対処した。 天正20年︵1592年︶、豊臣姓を下賜された[5]。 文禄2年︵1593年︶11月、秀吉は長政と子の幸長に甲斐国を当て、伊達氏、南部氏、宇都宮氏、那須氏、那須衆、成田氏を与力として付け、これらの領主の取次を命じた[6]。文禄2年︵1593年︶11月は文禄の役後であり、臨時的に編成によるものではなく、徳川家康への押さえとして与力を編成したものと考えられている[6]。 ﹃十六・七世紀イエズス会日本報告集﹄によると、豊臣秀次が失脚した秀次事件︵文禄4年、1595年︶の翌年の慶長元年︵1596年︶、浅野長政は﹁貴人たちの中の一人﹂︵具体的な人名は記載されていない︶から秀次の共謀者として秀吉に報告され、子の幸長とともに秀吉から切腹を命じられたという[7]。しかし、徳川家康と前田利家の執り成しで、両名が長政に尋問を行い、結果として長政の旧侍臣が反逆に関する書状を偽造していたことがわかった[7]。この旧侍臣は磔刑に処され、長政自身が処罰されることはなかったが、秀吉からの信頼を失ったという[7]。 取次の関係にあった領主のうち伊達政宗との関係では、長政とは朝鮮出兵の際に行動をともにし、晋州城攻撃では政宗の軍勢は長政の指揮下に入っていた[6]。しかし、政宗は所領の進上を申し出る文書を書かせたなどとして、長政に対して﹁絶縁状﹂とする不満を述べた長文の書状を送っている[6]。この背景には長政が秀次事件に関連して失脚した政権内部の状況変化が影響しているとする説もある[6]。 ただ、慶長伏見大地震︵1596年︶の際には地震直後に伏見城の秀吉のもとに駆け付けた[7]。 慶長2年︵1597年︶の宇都宮氏改易事件︵宇都宮崩れ︶に関与したともいわれる[6]。これには諸説あるが、宇都宮興廃記によれば、国綱には継嗣が無かったため、五奉行の一人である長政の三男・浅野長重[注 5]を養子として迎えようとしたが、国綱の弟である芳賀高武がこれに反対し、縁組を進めていた国綱側近の今泉高光を殺害してしまった。長政がそれを恨みに思ったため、その讒言により改易されたとしている。このほか宇都宮氏の後継者として長政の子息を養子とすることに国綱が反対したとする説や、浅野長政が主導した検地の際に宇都宮氏が過少申告していたことが露見したためとする説など諸説あるが明確な一次史料はないとされる[6]。 宇都宮氏改易事件︵宇都宮崩れ︶の影響は、国綱と縁戚︵いとこ︶関係に当たる佐竹義宣にも波及した[6]。慶長2年︵1597年︶10月7日の佐竹義宣から父・義重に宛てた書状があり、そこには、宇都宮氏を与力大名とし姻戚関係もある佐竹氏にも改易命令が出されたが、石田三成の取りなしによって免れたことや、﹁上洛して一刻も早く秀吉に挨拶すべきだが、浅野弾正の検使が宇都宮領の調査に向かっているので、それに覚られないように密かに上洛するように﹂という三成から指示を受けたことが書かれている[9]。宇都宮氏は長政の与力であったのに対し、佐竹氏は長政とはこのような関係はなく三成と取次関係にあったため、佐竹氏に対する改易命令は撤回されたものと考えられている[6]。 ﹃十六・七世紀イエズス会日本報告集﹄によると、秀吉は死の間際にそれまでの四奉行に加えて、五奉行の筆頭として長政を加えたという[10]。 慶長4年︵1599年︶の政治状況について、﹃十六・七世紀イエズス会日本報告集﹄は石田三成と浅野長政は﹁憎悪を爆発﹂させ対立が激化したとしており、長政と小西行長も﹁大いに不仲﹂だったとしている[10]。同年、家康暗殺計画の嫌疑をかけられ、甲府への謹慎を命じられたが、家督を幸長に譲って武蔵国府中に隠居した[11]。府中市白糸台5丁目には隠棲の地と伝わる場所が残っている[11]。関ヶ原の戦い[編集]
逸話[編集]
●小田原征伐において、秀吉が沼津城に進軍の際、案内役の家康家臣の伊奈忠次が舟橋を架けた。しかし秀吉は、側近の三成の言に従い、用心して渡ろうとしなかった。そこで長政が手勢を率いて先に渡り、舟橋の安全性を証明したという︵大道寺友山の﹃異本落穂集﹄より︶。 ●同じく小田原征伐の際、秀吉は、家康の居城の駿府城に宿泊する予定であった。しかし同じく三成が﹁駿河大納言殿︵家康︶は北条左京︵北条氏直︶の岳父であり、内応している疑いがございます﹂と述べた。すると長吉は﹁大納言殿はそのようなことをされる御方ではない。そんな偽りを信じてはいけませぬ﹂と秀吉に直言した。秀吉は長吉の言葉を容れて駿府城に入城し、家康から手厚いもてなしを受けたという︵﹃異本落穂集﹄より︶。 ●秀吉が文禄の役で自ら朝鮮に渡ると言い出した際、三成は﹁直ちに殿下︵秀吉︶のための舟を造ります﹂と述べたが、長吉は﹁殿下は昔と随分変わられましたな。きっと古狐が殿下にとりついたのでしょう﹂とも述べた。秀吉は激怒して刀を抜いたが、長吉は平然と﹁私の首など何十回刎ねても、天下にどれほどのことがありましょう。そもそも朝鮮出兵により、朝鮮8道・日本60余州が困窮の極みとなり、親、兄弟、夫、子を失い、嘆き哀しむ声に満ちております。ここで殿下が︵大軍を率いて︶渡海すれば、領国は荒野となり、盗賊が蔓延り、世は乱れましょう。故に、御自らの御渡海はお辞めください﹂と諫言したという︵﹃常山紀談﹄︶。 ●石田三成について研究している白川亨は、関ヶ原の戦いの前の長政謹慎事件は、長政や前田利長を三成らの反家康派から分離させようとした家康の陰謀、挑発であるという説を提唱している。長政の嫡子・幸長は三成と犬猿の仲だったため、長政は両者の間で苦悩していたという。 ●甲州八珍果を定め、甲斐国で果物栽培を奨励したという説があるが、正確なところは明らかになっていない[12]。叙勲[編集]
●1910年︵明治43年︶4月2日 - 贈従三位[13]系譜[編集]
●父‥安井重継 ●母‥浅野長詮娘 ●養父‥浅野長勝︵?-1575?︶ ●養母‥七曲殿︵?-1603︶ ●正室‥長生院︵?-1616︶ - やや、浅野長勝娘 ●長男‥浅野幸長︵1576-1613︶ ●次男‥浅野長晟︵1586-1632︶ ●三男‥浅野長重︵1588-1632︶ ●女子‥栄雲院︵?-1644︶ - 杉原長房正室 ●女子‥養梅院︵?-1626︶ - 堀親良室 ●女子‥智相院︵知想院︶︵?-1633︶ - 松平定綱正室 ●養子 ●男子‥杉原長房 (1574-1629) ●女子‥多羅尾光定室 - 浅野長継︵浅野長勝の弟︶の娘 ●女子‥船越永景室 - 杉原長房の娘安井重継 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長政 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
女 | 幸長 | 長治 (初代三次藩主) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
浅野長詮 | 長忠 | 忠吉 | 長晟 (安芸浅野氏初代) | 光晟 (2代広島藩主) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長季 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長重 | 長直 (赤穂浅野氏初代) | 長友 | 長矩 (内匠頭) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長勝 | やや (実娘または養女、長松院) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
女 (七曲) | 木下家定 | 勝俊 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
利房 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小早川秀秋 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
杉原家利 | 女 (朝日) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ねね (長勝養女、高台院) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
定利 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
木下藤吉郎 (豊臣秀吉) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
家次 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長男の幸長は、和歌山藩の初代藩主となり、慶長18年︵1613年︶、幸長の死後嗣子が無かったため、長政の次男で備中国足守藩主であった弟・長晟が家督を相続し、元和5年︵1619年︶に安芸国広島藩に加増転封となり、幕末まで存続した︵安芸浅野家︶。明治には侯爵となる。 三男の長重は、長政の隠居料を相続して真壁藩主[注 7]となり、子の長直の代に播磨国赤穂藩に転封となる︵赤穂浅野家︶。長重の曾孫が赤穂事件で有名な浅野長矩であり、事件後に赤穂藩は除封となる。弟の浅野大学︵長広︶家は500石に減封されて続いたが、昭和に後継者が無く断絶した。また、長政の従兄弟に忠吉がおり、三原浅野家︵家老・三原陣屋︶の祖となる。
登場作品[編集]
- テレビドラマ
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ 杉原信一﹃多羅尾の歴史物語﹄多羅尾郷土史研究会、1985年
(二)^ 現在の愛知県北名古屋市。
(三)^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、﹃コンサイス日本人名辞典 第5版﹄、株式会社三省堂、2009年 26頁。
(四)^ 鈴木紀三雄﹁﹁忍城水攻め﹂歴史像の形成﹂﹃地方史研究﹄64巻5号、2014年。
(五)^ 村川浩平﹃日本近世武家政権論﹄近代文芸社、2000年、34頁。ISBN 4823105281。
(六)^ abcdefghi梯弘人﹁豊臣期関東における浅野長政﹂﹃学習院史学﹄第49巻、学習院大学史学会、2011年3月20日、18-32頁。
(七)^ abcd白峰旬﹁﹃十六・七世紀イエズス会日本報告集﹄における五大老・五奉行に関する記載についての考察︵その1︶﹂﹃別府大学紀要﹄第56巻、別府大学会、2011年3月20日、53-63頁。
(八)^ ﹃宇都宮興廃記﹄
(九)^ ﹁佐竹文書﹂︵﹃栃木県史﹄史料編中世三、十一号︶
(十)^ ab白峰旬﹁﹃十六・七世紀イエズス会日本報告集﹄における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察︵その1︶―関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原の戦い当日の実戦の状況―﹂﹃別府大学紀要﹄第17巻、別府大学会、2015年3月、17-28頁。
(11)^ ab“府中市郷土の森博物館だより あるむぜお No.100”. 府中市郷土の森博物館. p. 8. 2024年5月17日閲覧。
(12)^ 小林求﹁甲斐八珍果﹂﹃山梨百科事典﹄山梨日日新聞社、1972年6月10日、153頁。全国書誌番号:73005476
(13)^ ﹃官報﹄第8031号﹁叙任及辞令﹂1910年4月4日。
参考文献[編集]
- 黒田和子『浅野長政とその時代』校倉書房、2000年、ISBN 4751731203
- 白川亨『石田三成の生涯』新人物往来社、1995年、ISBN 978-4-4040-2179-3