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神戸市立御影公会堂︵こうべしりつみかげこうかいどう︶は、兵庫県神戸市東灘区御影石町4丁目4番、石屋川の東側、国道2号の北側にあるにある歴史的建造物。国の登録有形文化財に登録されている[2]。集会施設として利用されるほか、施設内にある御影公会堂食堂は、建設当時から営業している老舗の洋食店として知られる。
御影町時代、この建物は御影町公会堂として建設された。設計は、清水栄二が手がけた[3]。
白鶴酒造の嘉納治兵衛により、1929年2月26日に15万円、1932年5月1日に2万円、1933年4月1日に3万円の計20万円の寄付と、その利子2万9365円49銭、町費積立金及びその利子1万554円6銭、一般町費496円32銭の計24万414円87銭で以って建設費・設備費・雑費が賄われた。敷地は石屋字左美也百二十二番地の十二の945坪6合6尺の土地で、1932年6月15日に大林組の請負で着工し、翌年5月20日竣工。5月25日落成式。6月14日使用条例を定める。
草の根たよりに堤防を這いずり上る。上ってみると御影第一第二国民学校御影公会堂がこっちへ歩いてきたみたいに近く見え、酒蔵も兵隊のいたバラックもさらに消防署松林すべて失せて阪神電車の土手がすぐそこ、国道に電車三台つながって往生しとるし、上り坂のまま焼け跡は六甲山の麓まで続くようにみえ、その果ては煙にかすむ — 野坂昭如﹃火垂るの墓﹄、主人公清太が石屋川から見た6月3日の空襲後の焦土と化した御影の町
1945年︵昭和20年︶、3度にわたる神戸大空襲により御影の町は焦土と化し、公会堂も被災した。
1947年︵昭和22年︶に園舎を全焼していた御影幼稚園がここで再開される。合併当時の教諭だった内海薫は、公会堂の被災状況をこう語っている。﹁公会堂の外側だけがやっと残ってたという感じで、内部はがらんどうのようでした。部屋も1階の3部屋だけが残ってましたね﹂﹁大ホールの方も全部焼けてしまって、入り口のロビーの所だけが残っていましたね。﹂新園舎は1951年︵昭和26年︶3月18日の卒園式に間に合うように完成した[4]。
終戦後、御影町には自力で修復するだけの財力がなく、御影町の神戸市との合併︵1950年︵昭和25年︶︶後に市によって修繕・改修を受け、1953年︵昭和28年︶4月から使用を再開した。
大ホールは約一千人[5]が収容でき、神戸市最大の集会施設であった。
1957年︵昭和32年︶11月から、結婚式場を設置し、低廉な経費で結婚式を行っている。最盛期には年間1100件の挙式があったが、各所に結婚式場が増えたため減少。それでも1975年︵昭和50年︶には約400組が挙式を行っていたが[6]、1983年に閉鎖された。
また、1974年︵昭和49年︶夏からは冷房施設も整備された[6]。
後に神戸国際会館、神戸市立中央体育館、神戸文化ホールなどのより大型の施設が建設され、利用者は減少した[6]。
建築後60年が経過して老朽化が進み、神戸市は公会堂を大改修して柔道の殿堂﹁嘉納記念館﹂とする計画を立案し、1995年元日付の神戸新聞に大きく掲載された。耐震性の問題から、正面玄関部分のみを残し、北側を壊して新しく建て替えるものであった。
しかし、その半月後に阪神・淡路大震災が発生した。周囲の建築物の多くが全半壊した中、公会堂はほとんど被害がなく、地震直後から約1年にわたり多くの被災者の避難場所として活用された。嘉納記念館構想はいつしか立ち消えとなった。
そして震災から21年経った2016年4月より、老朽化に対する修繕及びバリアフリー対応を目的として15億9700万円を投入して、建物外観の殆どをそのままにリニューアル工事が行われ、翌2017年4月10日にリニューアルオープンした[7]。地下には御影郷土資料室・嘉納治五郎記念コーナーが設けられ、嘉納治五郎が顕彰されている[8]。
2013年︵平成25年︶度のDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選出されている[9]。
以下は﹃御影町誌﹄に書かれた建設当時の情報である。
近世式鉄筋コンクリート三階建一棟 309坪2合5尺
●地階211.76坪
●一階309.29坪
●大集会場
●貸室第一号
●貸室第二号
●控室
●浴場
●二階201.35坪
●貴賓室
●日本室1号
●日本室2号
●日本室3号
●日本室4号
●浴場
●三階141.00坪
●食堂第一号
●食堂第二号
●控室第一号
●控室第二号
●塔屋及休憩所14.94坪
其他 - 娯楽室、露台
延坪合計978.34坪