福田昌子
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福田昌子 ふくだ まさこ | |
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1952年 | |
生年月日 | 1912年7月8日 |
出生地 | 福岡県築上郡吉富町 |
没年月日 | 1975年12月30日(63歳没) |
出身校 |
東京女子医学専門学校 (現・東京女子医科大学) |
所属政党 |
日本社会党(1947-51)→ 左派社会党(1951-55)→ 日本社会党(1955-58) |
称号 | 医学博士(1940年) |
親族 |
兄・福田喜東[1] 弟・福田敏南 |
選挙区 | 福岡県第1区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1947年4月26日 - 1958年4月25日 |
福田 昌子︵ふくだ まさこ、1912年7月8日 - 1975年12月30日︶は、日本の政治家、学校法人純真女子学園︵現・学校法人純真学園︶の創立者。衆議院議員。医学博士。福岡県築上郡吉富町出身。
生涯[編集]
1934年︵昭和9年︶に東京女子医学専門学校︵現・東京女子医科大学︶を卒業。1940年︵昭和15年︶、ヒスタミンの研究により史上最年少︵満26歳︶で医学博士号を取得した。 戦後の1947年︵昭和22年︶に、第23回衆議院議員総選挙に社会党から福岡県第1区で立候補して当選した[2]。以後は1958年︵昭和33年︶まで連続5回当選している。同年に優生保護法を自ら執筆し[3]、同じ社会党議員であった加藤シヅエと太田典礼の3人で法案を提出し、翌年成立した。福田も加藤の女性の権利や母胎保護には望まぬ出産への中絶の権利や母胎への危険のある出産を阻止する方法が必要だと考えに賛同していた[4]。 1949年︵昭和24年)、朝日新聞主催の座談会で﹁大体人類というものが一定不変の定律であるかどうか宗教が万人の犯すべからざるものかどうかを考えてみなければならない、日本の現状を考え、その置かれた立場を認識し、産児制限の是非論を戦わせなければならない、日本の現状からして残された人口政策がたった一つの対策として産児制限以外ないといえば、いやでも誰でも賛成しなければならない﹂と産児制限についての考えを述べている[5]。 議員現職中の1956年︵昭和31年︶に学校法人純真女子学園を設立して純真女子高等学校が開校し、初代理事長に就任した。1957年︵昭和32年︶に学校法人名を学校法人福田学園と改称し、純真女子短期大学︵現・純真短期大学︶が開学してその学長に就任。6期目を目指した1958年の総選挙、続く1960年︵昭和35年︶の福岡市長選[6]更にその直後に行われた総選挙[7]と立て続けに落選し政界から引退。1966年︵昭和41年︶には純真女子高等学校を男女共学制に変更した。同年、福田学園中学校が開校した。1967年︵昭和42年︶に東和大学を開学した。1968年︵昭和43年︶に、福田学園中学校・純真女子高等学校を東和大学附属中学校・東和大学附属東和高等学校と改称した[8]。1975年12月30日に死去した。家族・親族[編集]
脚注[編集]
(一)^ ﹁福田喜東﹂﹃大分県歴史人物事典﹄大分合同新聞社、1996年、433頁。
(二)^ 中選挙区時代の福岡1区では史上唯一の女性議員である。
(三)^ ふくおか先人資料館 » 社会 » 福田昌子 優生保護法
(四)^ 永畑道子 ﹃花を投げた女たち : その五人の愛と生涯﹄ 文藝春秋、p124
(五)^ 解決迫られる人口問題 ﹁産制﹂に二つの意味“人口の漸減”と“社会の浄化” 本社主催座談会 朝日新聞 昭和24年5月15日
(六)^ 社会党・共産党推薦。なお当選したのは自民党・民社党推薦の阿部源蔵︵前助役︶。
(七)^ 社会党の公認を得られず無所属で立候補。
(八)^ 福田の死後、2007年︵平成19年︶に学園名を﹁純真学園﹂、高校や中学の名称を﹁純真高等学校・純真中学校﹂へ再び改称した。なお、純真中学校は同時に生徒募集を中止し、2009年︵平成21年︶に休校、2012年︵平成24年︶に廃校となった。
(九)^ “福田昌子先生 生誕百周年 感謝を込めて” (PDF). 純心女子短期大学. 2019年9月4日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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