立花貞晟
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立花 貞晟︵たちばな さだあきら、万治3年︵1660年︶ - 享保5年10月24日︵1720年11月23日︶︶は、江戸時代前期・中期の江戸幕府旗本寄合席。筑後柳河藩主家・立花氏分家の立花弾正家初代。
柳河藩第2代藩主立花忠貞︵忠茂︶の8男で生母は伊達忠宗の娘で江戸幕府将軍・徳川秀忠の養女である鍋姫。正室は仙台藩主・伊達綱宗の娘である智恵姫。側室は昌善院。実子は松子、蓮の女子2人[1]。養子は立花清直︵右京、後の立花貞俶︶で後に柳河藩第5代藩主。
幼名は千徳丸、源五郎。元服時、父・忠貞の1字を取って貞晟と名乗る。通称は弾正。
経歴[編集]
第3代藩主・立花鑑虎の同母弟にあたる。延宝4年︵1676年︶に同母兄の立花茂辰とともに将軍徳川家綱に初御目見え。元禄10年︵1697年︶6月14日、甥で第4代藩主・立花鑑任より三潴郡新田5,000石[2]を新田分知されて、江戸幕府の旗本寄合席となる。鑑任から信頼されており、江戸留守居役に貞晟の意見を仰ぐように指示を出している[3]。 元禄7年︵1694年︶に正室の智恵姫をいとこ婚で迎えたが後に離婚[4]し、側室の昌善院との間には元禄12年︵1699年︶生まれの松子とその妹の蓮のみしか生まれず、正徳2年︵1712年︶7月11日に婿養子として庶兄・立花茂虎の孫・立花清直︵のちの貞俶︶を迎える。 正徳3年︵1713年︶に刊行された山口屋権兵衛蔵板の賞延武鑑では、駿府加番に﹁五千石 下谷御かち丁 立花弾正﹂との記載がある。 墓所は江戸深川の本誓寺。享年61。旗本の立花弾正家家督は貞俶が相続するが、貞俶が第5代柳河藩主となったので宗家の柳河藩に吸収され、以降旗本として再興されなかった。脚注[編集]
参考文献[編集]
- 「新訂寛政重修諸家譜・第2」(1964年、続群書類従刊行会)
- 「柳川市史別冊 図説立花家記」(柳川市史編集委員会編集、2010年3月30日発行)
- 『改定増補 大武鑑 上巻』(橋本博、1965年、名著刊行会)