竹崎氏
竹崎氏 | |
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本姓 | 称・藤原北家政則流菊池庶流 |
家祖 | 不詳 |
種別 | 武家 |
出身地 | 肥後国八代郡竹崎村 |
主な根拠地 | 肥前国 など |
著名な人物 | 竹崎季長(肥前竹崎氏) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
竹崎氏︵たけざきし/たけざきうじ︶は、日本の武家氏族。
出自は藤原北家政則流菊池庶流とされ、文永の役、弘安の役の活躍で知られる竹崎季長を出した肥後竹崎氏が著名。
由来[編集]
肥後国八代郡竹崎村より起こる。菊池氏、阿蘇氏の家臣。 肥後菊池氏の庶流とされるが、それを裏付ける家系図が残されておらず、竹崎季長以降の竹崎氏の流れについても不明点が多い。後には阿蘇氏家臣として活動した形跡が窺える。人物[編集]
●竹崎季長 : 蒙古襲来の時に大功を立てる[1]。﹁蒙古襲来絵詞﹂でも著名。 ●竹崎右衛門大夫 : 興国7年︵1346年︶、恵良惟澄に従う[1]。 ●竹崎左衛門太郎 : 正平元年︵1346年︶、少弐頼尚一族対馬豊前守と交戦し、撃退[2]。 ●竹崎惟貞 : 正平2年︵1347年︶、恵良惟澄とともに征西府に恩賞地を要求[2]。 ●竹崎惟岑 : 伊豆守。菊池勢力に下る[3]。 ●竹崎惟氏 : 安藝守[3]。 ●竹崎惟夏 : 文亀3年︵1503年︶12月19日、阿蘇家重臣の木山惟貞と竹崎惟満に宛てた書状を書く。木山城領の支配地をめぐり、菊池・阿蘇両氏の交渉を描く。︵﹃阿蘇家文書﹄、﹁竹崎惟夏書状﹂、刊本296号︶ ●竹崎惟満 : 筑前守。阿蘇家当主・阿蘇惟将の家臣として、木山惟貞とともに、阿蘇家に仕えた。 ●竹崎長秀 : 長門入道と称する。天正18年︵1590年︶4月、阿蘇惟賢︵阿蘇惟前の子︶に随行[2]。惟賢が阿蘇惟光への忠誠を誓う。このことから、同年5月20日、長秀は、惟光への忠誠起請文を仁田長門守に提出する[4]。脚注[編集]
(一)^ ab太田亮﹃姓氏家系大辞典﹄ 第2巻、姓氏家系大辞典刊行会、1936年、3394-3395頁。doi:10.11501/1130938。全国書誌番号:47004572。
(二)^ abc柳田快明﹃中世の阿蘇社と阿蘇氏 謎多き大宮司一族﹄戎光祥出版︿戎光祥選書ソレイユ 004﹀、2019年3月。ISBN 9784864033121。
(三)^ ab鈴木元﹁シンポジウム報告 ﹁菊池万句﹂をめぐる幾つかの問題﹂﹃国文学研究資料館調査研究報告﹄第36号、2016年、37-47頁。
(四)^ 森田誠一ほか﹁熊本藩年表稿﹂﹃研究報告書﹄熊本藩政史研究会、1974年3月29日。hdl:2298/15049。