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この項目では、日本の元号について説明しています。
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興国︵南朝方にて使用された。延元の後、正平の前。1340年から1346年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後村上天皇、北朝方が光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。
●延元5年4月28日︵ユリウス暦1340年5月25日︶ 改元
●興国7年12月8日︵ユリウス暦1347年1月20日︶ 正平に改元
﹃春秋左氏伝﹄昭公四年伝の﹁冀之北土、馬之所生、無興国焉、恃険与馬、不可以為固也﹂、﹃新五代史﹄伶官伝序の﹁憂労可以興国、逸予可以亡身、自然之理也﹂から。また興国元年は、日本書紀における神武天皇の即位から折りしも2000年目に相当し、その節目に因んだ改元ともとれる[1]。
興国期におきた出来事[編集]
●﹁興国四年の戦い﹂︵﹁尾野尻の戦い﹂︶
興国四年、豊後の大友氏が、阿蘇氏の本拠であった、隣国肥後の矢部郷に攻め入った。﹁興国四年の戦い﹂または﹁尾野尻の戦い﹂とも呼ばれている。阿蘇氏の家臣は、御岳にある眺めの良い小高い丘︵地元の伝承では山城があった場所と言われており、空濠がある。 ﹃熊本の中世城址﹄には載っていない︶に大友軍を誘導。あらかじめ埋めておいた爆薬に火をつけ、千人余里の兵を蹴散らしたという。火薬が爆発した響きは、ものすごい音であったという。爆薬のしかけは、土呂久鉱山の労働者︵現、宮崎・高千穂町︶を使った。
戦いより二百年余りたち、地元の男成・田所の人々が供養のために、板碑を建てて弔った。これを﹁千人灰塔﹂と呼び、山林に二基建っている。うち1基は、かなり大きいサイズである。
平成13年、地元で郷土史を学んでいる﹁いきいき大学﹂と﹁婦人学級﹂の生徒が、説明のために二本の標柱を建てた。
近くにある接続道が改良されたが、その場所に看板が無く、地元でも存在はほとんど知られていない。
西暦との対照表[編集]
- ^ 日本古典文学大系87『神皇正統記 増鏡』岩波書店、1983年、p86
関連項目[編集]