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八幡神社 (町田市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
箭幹八幡宮から転送)
箭簳八幡宮
所在地 東京都町田市矢部町2666
位置 北緯35度34分44.86秒 東経139度24分21.02秒 / 北緯35.5791278度 東経139.4058389度 / 35.5791278; 139.4058389 (八幡神社 (町田市))座標: 北緯35度34分44.86秒 東経139度24分21.02秒 / 北緯35.5791278度 東経139.4058389度 / 35.5791278; 139.4058389 (八幡神社 (町田市))
主祭神 応神天皇(誉田別命)
神体 木製彩色座像
創建 616年
別名 木曽八幡宮(旧称)・矢部八幡宮
例祭 9月15日
地図
箭簳八幡宮の位置(東京都内)
箭簳八幡宮

箭簳八幡宮

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61624[ 1]34殿

41567[3]

[4][5]稿殿[6][7]

510628178812殿殿51720[8]殿7[9]

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輿




輿




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殿[]


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輿[]


輿宿輿12

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姿殿

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殿[]



--箭幹八幡宮由緒-- 康平五年 源義家安倍氏を討ち 奥州より帰る途中 木曽に宿り 病にかかって毎夜悪鬼に責められる夢に見た 当社に祈願せしめられたところ 夢に神翁現れ 悪鬼を射倒すと見て病忽ち快癒した ここに於て本宮末社に至るまで尽く再興して神思に報いたと言い この時屋根に羽矢を挿入し 又境内に矢竹繁茂せるを以て 箭幹八幡宮と名づけこの地を矢部と称したと伝う 保元平治の乱に破れた源義賢は大蔵の館に拠り これを迎撃した源義平は 木曽仲三兼任 渋谷金王丸 鎌田正清等を率いて 図師原附近に於て会戦した 勝敗容易に決せず両軍乱戦死闘 義平の軍危しと見えた時 突如老翁と童子現れ 八幡宮の化身ならんと 神意を恐れ 遂に社前に和睦を誓った この時甲冑矢の根を埋めた所を根岸と名づけた 後 小山田有重所領十七郷の総鎮守として尊信篤く 社地建造物の寄進も多く 社参の道に今も鳥居坂の地名が残っている 寛文五年 代官高木伊勢守大鐘を鋳て鐘楼に掛け 後 代官簗田隠岐守亦社殿を再建して 領民と共に盛大な祭儀を挙行した 明治に至り宮号は廃止されたが 戦後再び古名を復した 祭神の神徳広大 学問 産業 災厄防除の守護神として広く尊信されている

殿[]


殿殿 61794

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使[11]


退姿退[5]

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JR18

JR2

JR2

JR25

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注釈[編集]

  1. ^ 東京都神社庁の紹介ページには「勅命により京都石清水八幡宮より勧請された」とあるが[1]、箭簳八幡宮HPには「総本宮たる九州の宇佐神宮の御霊を勅命により勧請した」とあり[2]、微妙に食い違っている。

出典[編集]

  1. ^ 八幡社【箭幹八幡宮】 東京都神社庁
  2. ^ 箭幹八幡宮の由来 箭簳八幡宮
  3. ^ 『箭幹社八幡宮記』
  4. ^ 木曽秋葉神社発行『史跡を訪ねて』
  5. ^ a b 町田市教育委員会編纂『町田の民話と伝承』
  6. ^ 「木曽村 矢幹八幡社」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ90多磨郡ノ2、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763988/49 
  7. ^ 森山兼光著『町田風土記』
  8. ^ 町田市教育委員会編纂『町田市史』下巻
  9. ^ 町田市教育委員会編纂『町田市史』上巻
  10. ^ 町田市教育委員会設置史跡説明板『町田市指定無形民俗文化財 矢部八幡宮獅子舞』
  11. ^ 町田市教育委員会編纂「町田の歴史をたどる」

参考文献[編集]

  • 東京都神社庁HP
  • 八百万の神

関連項目[編集]

外部リンク[編集]