耶律楚材

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武夷山茶博園にある耶律楚材像

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「中書令耶律公神道碑」の記す楚材の事蹟 年月 問題点
宰相の子としての特別待遇を敢えて辞退し、科挙を首席で合格した。 1200年代後半 実際に受けたのは最終試験である殿試のみで、特別待遇には変わりなかった[29]
中央アジア遠征中、ムスリムが予言できなかった月食を見事言い当てた。 1220年代前半 実際に月食を正確に予言できなかったのは楚材であり、この経験によって時差の存在を知って作成したのが庚午元暦であったと、楚材自ら書き記している[30]
「東印度国の鉄門関」に至った遠征軍が「角端」に出会ったため、これを理由に遠征を取りやめて帰還するよう楚材は進言し、チンギス・カンはこれに従った。 1221年 遠征軍が至ったのは「西インド」で「鉄門関」は中央アジアの地名であり、地理が全くの誤りである[31]。そもそもこの逸話は『春秋』が「獲麟」で終わっていることを踏まえて、「中央アジア遠征はこれで終わり」ということを暗喩的に示しているに過ぎない[32]
チンギス・カンの死後、燕京で頻発していた強盗を取り締まった。 1228年 実際にはフーシン部タガチャルがトゥルイの命を受けて行った事蹟を剽窃したものである[33]
チンギス・カンの後継者を一刻も早くオゴデイと決めるようトゥルイを説得した。 1229年 遊牧国家の通念として、皇族以外の者が皇位継承に口出ししたとは考えがたい[34]
オゴデイの兄チャガタイに即位式では真っ先に拝礼するよう要求し、これによって即位式は恙なく終わった。 1229年 『世界征服者史』は全く異なる即位式の流れを詳細に記述しており、モンゴル帝国の国体を踏まえた『世界征服者史』の記述の方がより正しいとみられる[35]
オゴデイより中書省の印を与えられ、中書令(宰相)の地位に就いた。 1231年 楚材は自著の中で「中書令」と称したことは一度もなく、事実宰相としての立場にはなかった[36]。南宋側の記録では楚材はビチクチ(書記官)に過ぎず、「中書相公」と自称するが韃主(=モンゴル皇帝)の承認を得たものではなかった、と明言する[37]
金朝の首都開封が包囲されると、孔子の末裔である公元措を初めとする文人達を保護した。 1232年 開封包囲中に公元措ら文人を引き渡すようモンゴル側から金朝に対して使者が派遣されたのは事実であるが、結局公元措らは開封陥落まで外に出ていない[38]。公元措は開封の陥落後に他の城民同様に連行され、最終的に漢人世侯の厳実によって保護されたと記録している[39]
開封を陥落させたスブタイが城民を皆殺しにすることを求めたが、楚材がオゴデイを説得してこれをやめさせた。 1233年 実際にはオゴデイの医師を務めていた鄭景賢の事蹟を剽窃したものである[40]

楚材の虚実と毀誉褒貶[編集]

錦州古塔公園の耶律楚材像







使



1996[]

1994

15[41]


一族[編集]

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  • 耶律弁才1171年 - 1237年):金の奉国上将軍、武廟署令、生母・郭氏
    • 耶律鏞:弁才の子
      • 耶律志公奴:鏞の子
      • 耶律謝家奴:志公奴の弟
  • 耶律善才1172年 - 1232年):金の都水監使、生母・郭氏
    • 耶律鈞:善才の子、元の東平路工匠長官
      • 耶律有尚:鈞の子、元の国子祭酒
        • 耶律楷:有尚の子、元の奉訓大夫、鄧州知州、生母・伯徳氏
        • 耶律朴:楷の同母弟、元の太常礼儀院奉礼郎、生母・伯徳氏
        • 耶律権:楷の同母弟、元の江南湖北道粛政廉訪司僉事、生母・伯徳氏
        • 耶律栝:楷の異母弟、元の陝西行省宣使、生母・不詳
        • 耶律検:楷の異母弟、元の将士佐郎、広源庫知事、生母・不詳

脚注[編集]

  1. ^ 宋子貞:『中書令耶律公神道碑』、節選自蘇天爵編集『元文類』巻五七
  2. ^ 杉山1996,79-80頁
  3. ^ 杉山1996,80頁
  4. ^ 杉山1996,77-78頁
  5. ^ 杉山1996,88-89頁
  6. ^ 杉山1996,90-91頁
  7. ^ 杉山1996,92-93頁
  8. ^ 杉山1996,141-142頁
  9. ^ 杉山1996,146-148頁
  10. ^ 杉山1996,156-157頁
  11. ^ 杉山1996,232-235頁
  12. ^ 杉山1996,236-239頁
  13. ^ 杉山1996,274-275頁
  14. ^ 杉山1996,293-294頁
  15. ^ 杉山1996,296-298頁
  16. ^ 杉山1996,27-28頁
  17. ^ 杉山1996,28頁
  18. ^ 高橋2021,164頁
  19. ^ 杉山1996,35頁
  20. ^ 杉山1996,36-37頁
  21. ^ 杉山1996,39-41頁
  22. ^ 杉山1996,56頁
  23. ^ 杉山1996,53-55頁
  24. ^ 杉山1996,56-57頁
  25. ^ 杉山1996,270-271頁
  26. ^ 杉山1996,33-35頁
  27. ^ 杉山1996,58頁
  28. ^ 杉山1996,57頁
  29. ^ 杉山1996,152-157頁
  30. ^ 杉山1996,259-261頁
  31. ^ 杉山1996,278-279頁
  32. ^ 杉山1996,280-281頁
  33. ^ 宮2018,529-531頁
  34. ^ 杉山1996,294-295頁
  35. ^ 杉山1996,295-297頁
  36. ^ 杉山1996,310-311頁
  37. ^ 杉山1996,306-307/322頁
  38. ^ 高橋2021,158-159頁
  39. ^ 高橋2021,160-161頁
  40. ^ 杉山1996,350-351頁
  41. ^ 陳舜臣『耶律楚材(下)』(集英社、1994年)308頁、8行-16行(集英社、1994年)
  42. ^ 鄭氏とする説もある。

参考文献[編集]

  • 岩村忍『耶律楚材』生活社、1942
  • 高橋文治『元好問とその時代』大阪大学出版会、2021年
  • 陳舜臣『耶律楚材』(集英社文庫上下、のち集英社・陳舜臣中国ライブラリー19)
  • 杉山正明『耶律楚材とその時代』白帝社、1996 ISBN 4891742356
  • 飯田利行『耶律楚材 大モンゴル禅人宰相』柏美術出版、1994
    • 飯田利行編訳『現代語訳・洞門禅文学集』国書刊行会、2002
    • 飯田利行訳注『定本湛然居士文集訳』国書刊行会、1985、新版1996
  • 松崎光久訳注『耶律楚材文集』中国古典新書続編25、明徳出版社、2001
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 元史』巻146列伝33耶律楚材伝
  • 新元史』巻127列伝24耶律楚材伝
  • 蒙兀児史記』巻48列伝30耶律楚材伝
  • 国朝名臣事略』巻5中書耶律文正王

登場する作品[編集]

関連項目[編集]