聖園テレジア
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
聖園 テレジア︵みその てれじあ、1890年12月3日 - 1965年9月14日︶は、ドイツヴェストファーレン州出身のカトリック教会修道女、女性教育者。日本各地に保育所、養護施設、医療施設を開設[1]。
略歴[編集]
●1890年 - ヴェストファーレン州グロースレーケンに生まれる。旧名はテレジア=イラーハウス︵イレルフウス︶ (Theresia Illerhaus)[2][3]。 ●1913年︵大正2年︶ - 聖霊奉侍布教修道女会所属の修道女として、キリスト教布教のため来日する[4]。 ●1920年︵大正9年︶ - 聖園テレジアは冷害によって貧困家庭の多かった秋田県において、新潟教区長ヨゼフ・ライネルス、札幌教区長キノルドの指導のもと、邦人修道女会の聖心愛子︵あいし︶会︵現・聖心の布教姉妹会[5]︶を秋田市に創立[6]。以後、貧困者のための医療施設や救済事業、養老院、子どものための養護施設、託児所、幼稚園などを日本各地に開いていく。 ●1927年︵昭和2年︶ - 秋田県知事より表彰される[7]。日本に帰化し[2]、聖園テレジアと改名した。 ●1938年︵昭和13年︶ - 神奈川県藤沢市に本部を移転[8]。 ●1940年︵昭和15年︶ - 秋田県秋田市に聖園保母学園を設立[5]。同年、社会事業大会で厚生大臣から社会事業功労者として表彰される[9]。 ●1946年︵昭和21年︶ - 聖心の布教姉妹会第3代総長として、神奈川県藤沢市の藤沢海軍航空隊跡地に、聖園女学院高等女学校︵現旧制高等女学校・聖園女学院高等女学校︶を設立[10]。 ●1948年︵昭和23年︶ - 社会事業功労者として、他の14人と共に昭和天皇に面会[11]。 ●1951年︵昭和26年︶ - 藍綬褒章受章[1]。 ●1952年︵昭和27年︶ - 先に設立した聖園保母学園が聖園高等保母学院と改称される[5]。後に聖園学園短期大学へ再編[5]。 ●1961年︵昭和36年︶ - 朝日社会福祉賞受賞[12]。 ●1963年︵昭和38年︶ - 第12回神奈川文化賞を社会福祉の区分で受賞[13]。 ●1965年︵昭和40年︶ - ドイツ連邦共和国大統領より大功労十字章を叙勲[14]。同年、秋田にて死去。藤沢市の聖心愛子会墓地に葬られる[15]。勲三等瑞宝章を受章[16]。家族[編集]
●父‥テオドル・イレルフウス︵1936年没︶ ●母‥アンナ・イレルフウス︵1901年没︶ ●兄‥テオドル︵1962年没︶ ●妹‥マリア エリザベト アンナ ●弟‥ハインリヒ︵テレジアの墓参のために没後に来日︶ ●異母兄弟‥ヘルマン トーニー フランツ [3]来日前後[編集]
1890年、ドイツのヴェストファーレン州グロースレーケンに生まれる。 1896年、グロースレーケンのカトリック女子国民学校に入学する。1901年、母が重い病気にかかり、5人の小さい子どもを残して死去。その後、父は再婚する。 テレジアは幼少期から、外国に行ってキリスト教の布教、貧しいかわいそうな人々を助けたいと考えていたが、母の教育に影響を受けたものだと、後年振り返っている。[17] 1904年にテレジアは国民学校を卒業する。 卒業後は生家を離れ、レッテ村のフラウ・シューメン家で家庭見習として、数年修行を勤めた。 聖心会︵みこころ会︶へ入会を志願したが、受け入れられず、傷心の日々を過ごす。[18] 1911年にオランダのシュタイルにある海外布教修道女会である、聖霊会︵聖霊奉侍布教修道女会︶への入会を許された[19]。2年の修練期を終え、1913年、テレジア22歳の時に日本へ向かうミッションに加わった。9月14日に横浜港に到着し、翌日汽車で秋田県に向かった。 秋田県では、聖霊会︵聖霊奉侍布教修道女会︶が聖霊学院女子職業学校︵現・聖霊女子短期大学付属高等学校[20]︶を経営しており、テレジアは専ら併設の育児部で孤児の世話を担当していた。楢山幼稚園・同孤児院に関わる[21]︶。この経験が、後のテレジアに大きな影響を及ぼす。[22] 天啓を得て、新しい修道会設立を目指すようになる。1919年、終生誓願を立てるべき日の前日に、6年を過ごした秋田県と修道会を去る。ヨゼフ・ライネルス教区長の導きと指示により、札幌のキノルド教区長を訪ねた。札幌の天使病院で3ヶ月を過ごし、1920年ヨゼフ・ライネルス教区長の命でふたたび秋田県に戻る。[22]聖心愛子会設立[編集]
ヨゼフ・ライネルス教区長に認められ、1920年5月31日、秋田市堀反で7人の日本人、3人のドイツ人とともに、初の邦人修道女会として、聖心愛子会を設立した [3]。 このうち2人のドイツ人シスター、シスター・ベンノーザとシスター・ゲオルギーナは、1920年に聖霊会を離れ、創立に参加した[23]。 8月には志願者が増えて手狭になり、秋田市寺町42番地の廃屋同然の家を借り受けて移転。すぐに近所の子どもたちを集めて日曜学校を開始した。 市役所の許可を得て託児所︵後の保育園︶を開き、家庭巡回介護、寺町聖心園内に聖心養老院を開いた。 生活は苦しく、キリスト教への理解も低く、苦労の多い時代であった。 ヨゼフ・ライネルス教区長の支援により、1924年に秋田市保戸野新町10番地に本部を移す。 養護施設である聖園天使園を創設。 1926年には名古屋市に聖心愛子会の支部を設け、翌年1927年には名古屋市に愛子幼稚園が開園した。 同年にテレジアは秋田県知事より表彰を受ける。 また、7月23日に国籍をドイツから日本に帰化し、聖園テレジアと改名した。[7] 1930年、新宿御苑でおこなわれた、昭和天皇皇后主催の観菊会に社会事業功労者として招待された[24] その後も、各地に保育所、幼稚園、養護施設、肺結核療養所などを設置していった。テレジアは、各地の支部や施設を折にふれて巡回した。[25] 1938年、聖心愛子会の本部を神奈川県藤沢市に移転した。 1940年には、秋田県秋田市に聖園保母学院︵現・聖園学園短期大学︶を設立した。 同年、社会事業大会で厚生大臣から社会事業功労者として表彰され、1942年には神奈川県知事から表彰を受けた。 第二次世界大戦の中、1943年に神奈川県藤沢市に聖園戦時保育所、1944年に横浜市に戦時保育所を開設した。空襲により、各地の支所に被害が出て、全焼するところもあった。藤沢市の本部も焼夷弾落下があったが、無事に戦後を迎えた。[26]第二次大戦後[編集]
1946年、神奈川県藤沢市に聖園女学園︵現‥聖園女学院中学校・高等学校︶が創設された。 この頃、フランス人神父フロジャックと共に、昭和天皇、香淳皇后と頻繁に面会している[27]。1946年には香淳皇后に皇居で面会、藤沢市の本部への来訪を受ける。翌年の昭和天皇の東北地方訪問の際に秋田支部への来訪を受けた[28]。その後も葉山御用邸で面会をしている。1948年には社会事業功労者として昭和天皇に会食に招かれた。 1947年には全国社会事業大会で、厚生大臣から表彰された。神奈川県の浮浪児等対策委員に委嘱された。秋には体調を崩し、一時危篤となるが、翌年に回復する。1948年には中央児童福祉審議会の委員に委嘱された。 1949年、聖園女学院中学校に高等学校が併設され、本部の聖堂が完成した。翌年には来日以来、初めて帰国する。ローマを巡礼し、ドイツ、フランス、北アメリカを回る。 1951年以降、体調を崩すことが増える。小康状態のときに、全国を回ることを継続していた。同年、藍綬褒章を受章した。 1962年、朝日賞を受賞。病床にあったため、授賞式には会員が代理で出席した。同年、勲四等宝冠章を受ける。 1963年、病身にむち打ち、ドイツ訪問。ケルン支部を視察し、弟ハインリッヒとも面会する。神奈川文化賞を受賞。 1965年、ドイツ連邦共和国のリュプケ大統領から大功労十字章を叙勲。体の具合が良く、叙勲伝達式のステージには上ることができたが、祝賀会には出席することができなかった。 1965年、高血圧に加えて肺炎を併発し、同年9月14日に死去した[29]。9月16日、秋田市保戸野すわ町で葬儀、遺体は藤沢本部聖堂へ移された。9月19日に本部葬、9月26日に聖イグナチオ教会にて社会福祉事業葬、10月5日に聖園女学院にて学院葬が行われた。勲三等瑞宝章を受章。 同年、聖園テレジア遺徳顕彰委員会︵聖園女学院内︶が発足した[30]。この委員会により、﹃聖園テレジア追悼録﹄が1969年に刊行された。叙勲[編集]
脚注[編集]
(一)^ ab﹁読売新聞﹂1965年9月16日朝刊、p.15
(二)^ ab﹃日本人名大辞典﹄デジタル増補版、講談社、2015年
(三)^ abc﹃聖園テレジア追悼録﹄聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、p.395
(四)^ “聖園テレジア︵20世紀日本人名事典︶”. コトバンク. 2020年3月3日閲覧。
(五)^ abcd“建学の精神・教育理念と沿革”. 聖園学園短期大学. 2020年3月7日閲覧。
(六)^ クラウス・クラハト、克美・タテノ=クラハト﹃鴎外の降誕祭﹄NTT出版、2012年、p.320
(七)^ ab﹃聖園テレジア追悼録﹄聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、p.398
(八)^ ﹃聖園テレジア追悼録﹄聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、p.416
(九)^ ﹃聖園テレジア追悼録﹄聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、p.419
(十)^ “創立母体とライネルス神父・沿革”. 聖園女学院中学校高等学校. 2020年3月4日閲覧。
(11)^ ﹃昭和天皇実録 第十﹄東京書籍、2017、p.721
(12)^ “朝日社会福祉賞”. 朝日新聞社. 2020年3月7日閲覧。
(13)^ “神奈川文化賞歴代受賞者一覧”. 神奈川県. 2020年3月7日閲覧。
(14)^ ﹃聖園テレジア追悼録﹄聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、p.425
(15)^ ﹃聖園テレジア追悼録﹄聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、p.32
(16)^ ﹃聖園テレジア追悼録﹄聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、p.426
(17)^ ﹃聖園テレジア追悼録﹄聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、p.399
(18)^ ﹃聖園テレジア追悼録﹄聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、pp.348-350
(19)^ ﹃聖園テレジア追悼録﹄聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、p.355
(20)^ “本校の歴史”. 聖霊女子短期大学付属高等学校. 2020年5月10日閲覧。
(21)^ 奥山順子﹁秋田県の幼稚園創設期におけるキリスト教会の役割 : 初期幼稚園にみる貴族性と養護性を中心に﹂﹃秋田大学教育文化学部研究紀要 教育科学﹄第61巻、秋田大学教育文化学部、2006年3月、71-81頁、CRID 1050282677936879616、hdl:10295/573、ISSN 13485288。
(22)^ ab﹃聖園テレジア追悼録﹄聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、pp.361-364
(23)^ ﹃聖園テレジア追悼録﹄聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、p.375
(24)^ ﹃聖園テレジア追悼録﹄聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、p.404
(25)^ ﹃聖園テレジア追悼録﹄聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、pp.403-416
(26)^ ﹃聖園テレジア追悼録﹄聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、pp.416-420
(27)^ 原武史﹃﹁昭和天皇実録﹂を読む﹄︵岩波新書︶、岩波書店、2015年、pp.188-192
(28)^ ﹃昭和天皇実録 第十﹄東京書籍、2017、p.413
(29)^ ﹁お悔み欄﹂﹃日本経済新聞﹄昭和40年9月15日夕刊.7面
(30)^ ﹃聖園テレジア追悼録﹄聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、pp.420-426
参考文献[編集]
- 聖園テレジア遺徳顕彰会 『聖園テレジア追悼録』(聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年) ASIN B000J9C7JE
- 宮内庁『実録昭和天皇』(東京書籍、2015年) ISBN 978-4487744015