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花柳 徳兵衛︵はなやぎ とくべえ、1908年1月16日 - 1968年5月24日︶は、日本舞踊家。本名は寺崎 孝太郎︵てらさき こうたろう︶。
花柳流に属し、芸術祭賞を4度も受賞するなど、昭和を代表する舞踊家として知られる。また、﹁東村山音頭﹂の振り付けを担当したことでも著名。楽しいトークと美しいパフォーマンスで観客を楽しませた。甘いマスクでファンが非常に多かった。また、後進の育成にも尽力し、徳兵衛日本舞踊学校を設立するなどして多くの弟子を育てた。徳兵衛舞踊団団長および、民族舞踊研究所所長を務めた。
1908年 群馬県高崎市で生まれる。
1917年に上京後、1924年に花柳徳之助に入門した。1928年に本名から花柳徳兵衛に改名する。
1937年には、国際親善芸術使節の一員としてタイ王国で公演した。
戦時中は各地への慰問に追われた。戦争末期には画家の岩田専太郎の疎開先を頼って岩手県に移り、食糧に窮して岩田やその妹︵湊明子︶と一座を組んで、岩田の解説で花柳が踊る出し物︵湊明子は衣装係︶で村々を慰問して食糧を得た[1]。
1954年、﹁慟哭﹂で芸術祭賞を受賞する。1956年にはアジア連帯委員会に日本代表として出席した。1957年に﹁土に生きる﹂で2度目の芸術祭賞を受賞。カイロで開かれたアジア・アフリカ諸国民会議に日本代表として出席した。1959年には﹁三つの世界﹂で3度目の芸術祭賞を受賞した。
1967年、﹁壇ノ浦﹂で4度目の芸術祭賞を受賞した。
1968年に死去。
- ^ 津村節子『銀座・老舗の女』文藝春秋〈文春文庫〉、1985年、p.230