若者文化
若者文化︵わかものぶんか︶、またはユース・カルチャー (英:youth culture, youth subculture) とは青少年層︵男女は問わず︶に支持されている文化的形態や活動である。一過性の流行とは異なり、一定の持続性があるものとされる。正確には完全な対義語ではないが、アダルティズムに対比される文化的形態である。
概説[編集]
若者文化と称される形態の、芸術︵音楽・文学・絵画など︶や、各種文化的な活動は、それまで世間に広く認知されてきた﹁既存の﹂文化からは異端と見なされるような、﹁新しい﹂価値観を持っている。支持層は13歳から20代程度の青少年で、それ以外の年齢層には、それに属する事物の﹁良さ﹂は分かりにくいことが多いとされていた。 しかし、高度な文化性を示すハイカルチャーや、社会の大勢を占める支持者のいるメインカルチャーが、古臭いと見向きされなくなる一方で、価値観の多様化と世代のボーダレス化がすすみ、若者文化とそれ以外の文化の境もはっきりしなくなってきている。この部分には、若い世代が既存カルチャーを否定した後、世代交代で新規の担い手が出る一方、かつての支持者たちが加齢後もその指向を持ち続けている場合もあれば、青少年層の中にもかつてのメインカルチャーやハイカルチャーに興味を示す者、あるいは一度廃れたかつての前衛文化に関心を抱く傾向すら見られる。これには﹁レトロフューチャー﹂のような動向も見られる。 ある時代の若者文化が次の時代にはハイカルチャーに転換することもありうる。たとえば、歌舞伎の語源は江戸時代の若者文化である﹁傾ぶく︵かぶく︶﹂より発生している。現在でこそ歌舞伎は日本のハイカルチャーの一つではあるが、当時は﹁悪趣味なほどに絢爛豪華を演出する前衛芸術﹂の一つだった。成立の経緯[編集]
若者文化は、アメリカ合衆国では、ティーンエイジ(teenage)という概念が成立した1950年代以降に成立したと考えられている。戦後日本では、焼け跡世代が成人した1950年代以後﹁太陽族﹂﹁カミナリ族﹂﹁暴走族﹂﹁みゆき族﹂﹁アンノン族﹂﹁おたく族﹂﹁竹の子族﹂というように、行動様式を共有する青年を﹁○○族﹂というように民族︵異文化︶に例えた。この慣例は1980年代前半頃まで続いた。この部分にも、既存文化に相容れない価値観が発生した事が伺われる。 これ以前にも若者固有の文化という形では、様々な形態が勃興を繰り返してきたが、これがメインストリームを覆すほどの力が無い部分に絡み、またメインカルチャーの担い手である大人の価値観が、社会を動かしていたと考えられる。 この若者文化が明確に定着した時代背景には、通信や交通網が非常に発達したことが挙げられる。それまでは、この年齢層の青年が離れた地域に旅行することは経済的にも非常に困難であったし、また他の地域の青年がどのような生活を送っているかを知ることもまた困難であったため、同時多発的に広域で流行が進行することも無かった。しかし、道路交通網や新幹線などの長距離移動手段が成立し、若者向けの雑誌や、若者を対象にしたテレビ・ラジオ番組が増え始めると、それらを利用して他地域の青年同士が強く影響を与え合い、独自の文化を形成することが可能になったと考えられる。 これと同時に、かつてはこれら若者世代向けの文化媒体は、当人らが経済的に豊かでは無いため商業的にあまり儲からなかった部分があるが、同時期以降には次第に若い世代が趣味や余暇に充てられる時間・金銭が増大し、この層にのみ向けた商業活動も莫大な利益を生む市場を発生させ、情報発信側も関連産業の強化を行うといった余裕がでてきたと考えられる。 こうして文化の消費者と供給者の関係が成立した市場では、旧来の一過性・局地的なブームには収まらず、メインカルチャーに匹敵する﹁文化﹂としての価値が発生したといえよう。 日本では、若者文化の流行の発信地といえば、20世紀初頭は浅草だったが、関東大震災後は銀座に移る[1]。戦後は1970年辺りまでは新宿だった。しかし1969年、ベトナム戦争への反戦運動として新宿駅の西口地下広場で行われていた無許可のフォークソング集会を警察が強制解散させ、その後の6月28日に若者達と機動隊が衝突して多数の逮捕者が出た﹁新宿西口フォークゲリラ事件﹂を機に、新宿に若者が集まることが困難となり[注 1]、同時に若者からも新宿が忌避されるようになった一方、1973年に渋谷でPARCOの開店があり、渋谷駅からPARCOを経て渋谷区役所・渋谷公会堂に至る﹁区役所通り﹂を﹁渋谷公園通り﹂と改称して再開発を実施したことで、日本における若者文化の歴史が大きく変化。その流れは﹁新宿から渋谷、または渋谷区全体へ﹂と移り変わっていった。これは同時に、政治色の強いカウンターカルチャー︵参考‥1960年代のカウンターカルチャー︶から商業主義的色彩の強いサブカルチャーへの変質でもあった[2][注 2]。 その後、女性の大学進学率上昇を背景として1980年代より﹁女子大生ブーム﹂と呼ばれる現象が始まり[3]、時代が下がるにつれ女子高生、女子中学生に焦点があてられていくなど、情報発信側が、活発で感受性の強い彼女らの動向から時代の方向を見出そうとする活動もみられた。1990年代後半より普及したインターネットにより、消費者から直接的に情報を収集するなどという活動も見られる。 若者達が抱いていた21世紀の希望は1990年代のバブル崩壊、阪神淡路大震災、オウム真理教事件などによって打ち砕かれ、ロスジェネと呼ばれる世代が生まれた。この時代には世相を反映してセカイ系と呼ばれる暗鬱な作品が流行した[4]。若者の○○離れが問題視され、若者がGDPを押し下げているとまで揶揄された[5]。2010年代には若者文化は若者の人生﹁何も起きない﹂諦めに近い価値観を反映するようになった[6]。また戦後民主主義への反発という形で再び政治性を帯びている点もある[7][8]。 長らく若者文化の発信地であった渋谷も2010年代には若者離れを招いていることが指摘される。宇野常寛は﹁日本のポップカルチャーは︵2018年当時︶この20年ウェブからしか出てきていない。もう街から文化を発信する力はだいぶ弱まっていて、それをもろに受けているのが渋谷﹂と述べている[9]。少子化の影響[編集]
日本では少子化により青少年人口が減少しており、それに伴う若者文化の衰退を懸念する意見が出ている。
音楽CDや週刊少年漫画雑誌といった娯楽媒体の売り上げは、1990年代後半に入ってから減少している。例えば、1990年代に週刊少年誌売り上げ1位だった﹃週刊少年ジャンプ﹄は、1990年代に650万部あった発行部数が、2006年には290万部と半分未満に下降した。テレビアニメも、1970年代には﹃宇宙戦艦ヤマト﹄、1980年代には﹃ドラゴンボール﹄、1990年代には﹃美少女戦士セーラームーン﹄といった作品が視聴率30%以上を記録していたが、2000年代に入ると、テレビアニメは、独立UHF放送局などといった枠に移され、視聴率も下降した。
ただし、2000年代以降のテレビアニメは、当初から視聴対象を絞った上で多くの作品を制作し、パッケージメディアを販売して収益を得るという業界構造の変化があるため、各々の作品の視聴率のみをもって単純に比較することは不可能である︵上の例でも当時の大流行番組と昨今の﹁普通のアニメ番組﹂を比較している︶。また、コミック雑誌の売上についても、消費者がインターネットなど電子媒体にシフトしたことによる、紙文化の衰退とも捉えられる。
なお、週刊雑誌やテレビアニメの視聴率の低迷にもかかわらず、コミック単行本やアニメソフト[注 3] などでは逆に売り上げを伸ばしている。これは、漫画やアニメの最盛期に少年時代を送った1965年〜1979年生まれの男性が、アニメや漫画といったジャンルで盛んな購買意欲を示している点も挙げられる。
こういった従来は児童や少年層︵少女層含む︶向けの媒体と考えられていたものが、より広い年齢層をターゲットとした作品制作に移行する傾向も、日本国内では顕著である。従来若者文化の一翼を担っていた漫画やアニメといった媒体にあっても、より対象とする世代に広い幅を取るようになっている。この為、人口が多い1965年〜1979年生まれの世代が漫画やアニメの消費者として存在感を保っているうちは、顕著な変化は見られないと考えられる。
代表的な日本の若者分類言葉[編集]
戦前[編集]
- モボ・モガ(大正末期 - 昭和初期のムーブメント)
終戦~高度成長期[編集]
安定成長期[編集]
低成長期[編集]
関連項目[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ この事件以後、新宿駅西口地下広場は道路交通法における﹁通路﹂とみなされるようになり、一切の集会が禁止された︵現在までこの規定が維持されている︶。
(二)^ この一連の変化については、1974年に雑誌﹃ビックリハウス﹄を創刊して渋谷から若者文化を形成する一翼を担ったアートディレクターの榎本了壱が、﹁カウンターカルチャーからサブカルチャーの時代へ﹂と題した2017年のトークショーで解説を加えた。
(三)^ かつての単価が高いビデオテープによるビデオソフト媒体に替わって、単価的に安くシリーズ物やボックス物として販売しやすいDVD・Blu-ray Discが主流となっている。2010年代以降はパッケージビジネスから動画配信ビジネスへの移行が進んでいる。