菅健次郎
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菅 健次郎︵かん けんじろう[1]、明治28年︵1895年︶5月6日[2] - 昭和21年︵1946年︶4月1日︶は、日本の鉄道官僚、柔道家。国鉄バス創始者とも言われる[3]。
亀草線のバス
経歴[編集]
滋賀県甲賀郡水口町︵現在の甲賀市︶出身[2]。水口小学校卒業、旧制膳所中学校、第五高等学校を経て、1921年︵大正10年︶に東京帝国大学法学部法律学科︵独法︶を卒業[2]。講道館柔道七段を授けられている。 鉄道省に入省。在外研究員となり、1928年︵昭和3年︶にアメリカに渡り、自動車運輸の重要性に着眼し、2年半、欧米にて調査研究を行った[4]。省営自動車︵旧国鉄バスの前進︶の創設に尽力した。当時は外国産のバスに押され、国産バスについても外国製部品の組み立てが多く、完全な国産はできていなかったところ、運輸局長久保田敬一の指示により、国産バスの開発を推進した[4][5]。 1930年︵昭和5年︶12月20日、嚆矢線として岡多線︵岡崎・多治見・高蔵寺間︶57.1kmにはじめて省営自動車を開通させた[6][7]。以後、1931年︵昭和6年︶5月11日の三山線︵三田尻・山口間︶、1932年︵昭和7年︶3月25日に亀三線︵亀山・三雲間、のち亀草線︶をはじめ、全国に多数の路線を建設した[8][7]。なお、最初の3線は菅が試験線として創ったもので、車輛、道路、運転、営業、民間の補填など、様々な研究を行った[7][注 1]。悪路や山道の走行ではガソリン消費量が多く、燃費対策が求められ、バス用ディーゼルエンジンの開発を推進した[4]。 バスの開発とともに、大出力エンジンの応用により、機関車、車、建設機械、船舶機関などにも活用できるとその必要性を説いた[10]。 千葉運輸事務所長、名古屋鉄道局庶務課長、同局教習所長、同局運輸課長、運輸局自動車課長、関東軍交通部次長、鉄道監察官、関東軍司令部附、関東軍参謀部附を歴任し[1][7]、1940年︵昭和15年︶に退官した[11]。退官後は、華北交通株式会社自動車局長、同参与・済南鉄路局長[11]、帝国薪炭統制会理事、全国自動車燃料会長を歴任した[3]。著書[編集]
●﹁自動車の道路損傷に就て﹂﹃道路の改良﹄第14巻 第12号 pp. 29–37、道路改良会、1932年。 ●﹃國産自動車工業の現在及將来﹄︵經濟研究叢書、號外33︶、日本工業倶楽部経済研究会、1936年。 ●﹁省營自動車の將來﹂﹃省営自動車十年史﹄ pp. 9–12、省営自動車十年史刊行会、1940年。 ●﹃自動車を語る : 菅健次郎論説﹄、自動車交通弘報社、1948-1949年。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ ab日本官界名鑑 1940.
(二)^ abc省営自動車十年史, pp. 19–20.
(三)^ ab“きょう水口で除幕式国鉄バス創始者故菅氏の碑”. 読売新聞滋賀版. (1957年3月25日)
(四)^ abc大場四千男﹁日本自動車産業と総力戦体制の形成︵二︶﹂﹃開発論集﹄第102巻、2018年9月28日、149頁。
(五)^ 省営自動車十年史, p. 74-75.
(六)^ ﹁鉄道省告示第354号﹂﹃官報﹄1930年12月17日︵国立国会図書館デジタルコレクション︶。
(七)^ abcd省営自動車十年史, p. 17-20.
(八)^ ﹃つばめマークのバスが行く﹄交通新聞社、2014年4月1日。
(九)^ 河合太仲 1942, pp. 102–105.
(十)^ 山岡, 茂樹﹁本邦高速ディーゼル工業史の教訓﹂﹃技術と文明 : 日本産業技術史学会会誌﹄第2巻第2号、日本産業技術史学会、1986年3月、15-16頁、NAID 120006779283。
(11)^ ab大衆人事録 1943.