葛目直幸
葛目 直幸︵くずめ なおゆき、1890年︵明治23年︶10月10日[1][2] - 1944年︵昭和19年︶7月2日[1][2]︶は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は従四位勲二等功二級[3]。
経歴[編集]
高知県長岡郡岡豊村笠ノ川︵現・南国市岡豊町笠ノ川︶出身[1][2][3][4]。農業・葛目倉次・ふさの二男として生まれる[1][3]。高知第一中学校︵現高知県立高知追手前高等学校︶卒業を経て、1913年︵大正2年︶5月、陸軍士官学校︵25期︶を卒業[1][2][5]。歩兵第22連隊附としてシベリア出兵に従軍[3]。内地帰還後の同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付に転じる[1][3][5]。 1923年︵大正12年︶8月、歩兵大尉に昇進し近衛歩兵第4連隊中隊長に就任[1]。東京警備副官を経て、1931年︵昭和6年︶8月、歩兵少佐に昇進し独立守備歩兵第3大隊付となる[1]。第1独立守備隊副官を経て、1936年︵昭和11年︶8月、歩兵中佐に進み歩兵第43連隊付︵徳島中学校配属将校︶となる[1]。1937年︵昭和12年︶8月、同連隊補充隊付となり、独立守備歩兵第18大隊長を経て、1937年︵昭和14年︶8月、歩兵大佐に進級し丸亀連隊区司令官に就任[1][4]。1941年︵昭和16年︶4月、連隊区名称の変更に伴い高松連隊区司令官となる[1][4]。 1941年︵昭和16年︶7月、歩兵第222連隊長に発令され日中戦争に出征[1][2][4]。1943年︵昭和18年︶10月、南方に転用され太平洋戦争に出征[2]。ビアク島の戦いに参戦し、1か月以上の激戦を行い、その善線ぶりにマッカーサーを苦しめたが、1944年7月、戦闘継続を断念して自決し、同日、陸軍中将に2階級特進した[1][2][4]。同年8月、南方軍総司令官、第2軍司令官より個人感状を授与された[3][4]。墓所は故郷の南国市岡豊町笠ノ川にある[3]。親族[編集]
- 長男 葛目陸雄(陸軍中尉)[1]