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蓑笠庵 梨一︵さりゅうあん りいち、正徳4年︵1714年︶ - 天明3年4月18日︵1783年5月18日︶[1]︶は、江戸時代中期の日本の俳人。本姓は関、別姓に高橋。﹁梨一﹂は号で、名は高啓、干啓。墓は福井県坂井市丸岡町石城戸町の台雲寺にある[2]。
武蔵国︵現在の埼玉県︶児玉郡出身。父は、赤穂事件のおりに吉良義央を襲った浅野長矩を抱きとめ、短刀を奪い取った関久和[3]。1739年︵元文4年︶より佐久間柳居に師事して、江戸︵現在の東京︶で俳諧を学ぶ[1][2]。幕府の地方役人として各地を巡り、1761年︵宝暦11年︶に越前国︵現在の福井県の一部︶下兵庫村︵現在の福井県坂井市坂井町下兵庫︶の代官となる。その後、丸岡藩主有馬誉純に招聘され、儒官となり[2]、城下の石城戸︵福井県坂井市丸岡町石城戸町︶に移住した。安永年中に私塾蓑笠庵を開き、俳諧や習字などを教えた。隆盛期には80名に達したといわれている。当時の越前俳壇が美濃派に傾倒していることを憂え、蕉風俳句の復興に尽力した[4]。その後、梨一を中心に句会が開かれるようになり、そうした中で松尾芭蕉の﹃おくのほそ道﹄の研究に没頭し、その注釈書である﹃奥細道菅菰抄﹄を完成させた。梨一は﹃奥細道菅菰抄﹄の完成に10年という長い年月をかけた。その間、梨一が調べた和漢の書物は100冊以上にのぼる。﹃奥細道菅菰抄﹄は、注釈書としては最も古く、﹃おくのほそ道﹄を理解するうえでの辞典として、必要な存在となる[5]。1783年︵天明3年︶梨一は病に倒れ、妻子を江戸に残したまま、独りで暮らしていた。その後、衰弱していき、山野田小兵衛が自分の家に引き取って看病した。しかし、立つこともかなわなくなり、同年4月18日に70歳で亡くなった[6]。
著書に松尾芭蕉の﹃おくのほそ道﹄の研究書﹃奥細道菅菰抄﹄、句集に﹃もとの清水﹄、﹃大和紀行﹄などがある。
京に居︵い︶て京を見る日やひな祭
目の前の島忘れたる汐干︵しおひ︶かな
春の日や遊び遊びて竹のおく
したたりや蝶の眠りのさめぬほど
かげろうに口あかぬ鳥なかりけり
百合の芽や世は鬼もなき山の中
走り帆の風休ませよ青すだれ
まつかぜや夢吹よせて昼寝塚
牡蠣割りや乾く間もなき袖の汐︵しお︶
よいものを見にけり空に郭公︵ほととぎす︶