丸岡藩
丸岡藩︵まるおかはん︶は、越前国︵現在の福井県︶坂井郡などを支配した藩。居城は丸岡城︵現在の福井県坂井市丸岡町霞︶。
丸岡藩家老有馬天然屋敷跡庭園
丸岡は戦国時代、織田信長配下の勇将・柴田勝家の養子・柴田勝豊が治めていた。勝豊が賤ヶ岳の戦い後に病死すると、青山宗勝・青山忠元父子が入った。青山氏は慶長5年︵1600年︶の関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後に改易された。代わって越前福井藩に入った結城秀康の重臣・今村盛次が2万5000石で入ったが、慶長16年︵1611年︶の福井藩重臣による内紛に巻き込まれて流罪とされた。その後の慶長18年︵1613年︶5月、徳川家康のもとで仕えて﹁鬼作左﹂の異名をとったことで有名な本多重次の子・本多成重が4万石を与えられて入り、秀康の後を継いだ松平忠直を本多富正と共に補佐した。大坂の陣でも活躍し、武功を挙げている。寛永元年︵1624年︶、忠直が豊後国に流罪とされると、成重は4万6300石に加増され、福井藩から独立した大名として取り立てられた。成重とその子・本多重能、そして孫の本多重昭の3代は検地・城下町の整備・新江用水の新設など、藩政の確立に尽力したが、重昭の子・本多重益は酒色に溺れては無能の上、家臣の本多織部と太田又八の間で内紛が起こり、元禄8年︵1695年︶に幕命により改易された。
代わって戦国時代のキリシタン大名で有名な有馬晴信の曾孫・有馬清純が越後糸魚川藩から5万石で入部する。第2代藩主・有馬一準の時代である正徳元年︵1711年︶に外様大名から譜代格へ格上げされた。第5代藩主・有馬誉純は若年寄、第8代藩主・有馬道純は老中という幕府の要職に就任した。特に誉純の代は安永元年︵1772年︶から約50年間という長期にわたって藩主を務め、藩政改革を行なって藩政を安定させた上、藩校である平章館の設立や藩史・地誌の編纂に力を注ぐなど、文化面でも大いに貢献した。明治2年︵1869年︶6月、道純は版籍奉還により丸岡藩知事となり、明治4年︵1871年︶9月の廃藩置県により、道純は東京に移住して丸岡藩は廃藩となったのである。
雪の丸岡城天守
藩史[編集]
歴代藩主[編集]
本多家[編集]
譜代4万3000石 (一)本多成重 (二)本多重能 (三)本多重昭 (四)本多重益有馬家[編集]
外様→譜代5万石幕末の領地[編集]
外部リンク[編集]
先代 (越前国) |
行政区の変遷 1613年 - 1871年 (丸岡藩→丸岡県) |
次代 福井県(第1次) |