蔡鍔
蔡鍔 | |
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プロフィール | |
出生: |
1882年12月19日 (清光緒8年11月初10日) |
死去: |
1916年(民国5年)11月8日![]() |
出身地: |
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職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 蔡鍔 |
簡体字: | 蔡锷 |
拼音: | Cài È |
ラテン字: | Ts'ai O |
和名表記: | さい がく |
発音転記: | ツァイ・オー |
蔡 鍔︵さい がく︶は、清末民初の軍人。中華民国の初代雲南都督。袁世凱による帝制実施を阻止するため、護国戦争を発動したことでも知られる。もとの名は艮寅、字は松坡。
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蔡鍔別影
1911年︵宣統3年︶7月、蔡鍔は雲南省で新軍第19鎮第37協協統に任命される。同年10月10日、武昌起義︵辛亥革命︶が勃発すると、蔡鍔は雲南省の革命派である李根源・唐継尭とともに、これに呼応して挙兵する計画を立てる。10月30日、蔡鍔らは昆明で挙兵し、雲貴総督李経羲を捕虜として雲南省を掌握した︵重九起義︶。
11月1日、﹁大中華国雲南軍都督府﹂が設立されると、蔡鍔は雲南都督に推戴された。蔡鍔は直ちに、雲南の軍事・政治の改革に取り組む。その清廉にして果断な政治姿勢により、省政の面目を一新したため、省を混乱させることなく、人心掌握に成功した。
1913年︵民国2年︶5月、蔡鍔は梁啓超らが率いる進歩党の名誉理事となったが、まもなく辞任している。ただし、これ以後も、蔡鍔と梁啓超との関係は極めて密接である。同年7月、二次革命︵第二革命︶が勃発すると、蔡鍔は袁世凱を支持した。しかし、袁世凱は地方勢力の拡大を恐れ、子飼いでない地方都督を北京に呼び寄せ、籠絡と監視を行うようになった。同年10月、蔡鍔も入京し、唐継尭が後任の雲南都督となった。
1915年︵民国4年︶11月、袁世凱の帝政に反対した蔡鍔は、梁啓超らの援助で北京を脱出して雲南に戻った。12月25日、唐継尭らとともに雲南省の独立を宣言する。袁世凱討伐のための護国軍が組織され、蔡鍔は護国軍第1軍総司令となった︵第2軍総司令李烈鈞、第3軍総司令唐継尭︶。こうして護国戦争が始まったのである。
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結核の治療のために妻子とともに来日した蔡鍔。1916年
1916年︵民国5年︶春、蔡鍔率いる2万人の護国軍第1軍は、四川省の瀘州・納渓一帯で8万人の北京政府軍を撃破した。さらに、広西省の陸栄廷も独立を宣言したことにより、袁世凱による帝政の取消しを成功させた。袁世凱死去後の6月に蔡鍔は、四川督軍兼省長となった。しかし結核に冒され、日本に行き、福岡市で治療を受けることになる。
同年11月8日、蔡鍔は九州帝国大学医科大学附属医院︵現在の九州大学病院︶で、そのまま死去した。享年35︵満33歳︶。1917年︵民国6年︶4月12日、湖南省の岳麓山で国葬が執り行われた。
遺作は﹃蔡松坡集﹄。
事跡[編集]
清末の事跡[編集]
幼時から私塾で学び、1898年︵光緒24年︶に長沙の時務学堂に入学する。梁啓超・唐才常に師事し、変法思想の影響を受けた。光緒25年︵1899年︶、日本に留学した。1900年︵光緒26年︶、唐才常に従って帰国し、自立軍運動に参加した。運動の失敗後に、名を鍔と改め、再び日本に赴く。日本では成城学校と陸軍士官学校で軍事学を学んだ。 1904年︵光緒30年︶、卒業して帰国する。翌年、湖南教練処幇弁、武備・兵目両学堂の教官をつとめた。同年8月、広西省へ転勤し、新軍総参謀官兼総教練官等をつとめた。1907年︵光緒33年︶、広西陸軍小学を創始して総弁となる。さらに広西兵備処総弁となった。1908年︵光緒34年︶4月に広西新練常備軍第1標標統、1910年︵宣統2年︶に広西混成協協統と歴任している。 以上のように、蔡鍔は広西省で軍事の要職に就き、軍近代化の改革にも積極的だった。しかし広西省の革命派からは、蔡鍔は清朝擁護派と目されたようである。この年の10月に革命派主導の蔡鍔を追放する運動が始まり、蔡鍔は雲南省へ異動することになった。実際には、蔡鍔は黄興との間で交流を持ち、革命派団体の組織に密かに従事するなど、広西省赴任期間でも明確に革命派の姿勢を保っている。その一方で、広西省にある間に、蔡鍔は中国同盟会に入会したとされるが、否定する説もある。辛亥革命から護国戦争へ[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/af/GeneralQaoAoCampa%C3%B1aDeYunnan.jpg/150px-GeneralQaoAoCampa%C3%B1aDeYunnan.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/75/Chi-E_with_wife_and_baby_-_Chinese_revolutionary_leader_who_fled_to_Japan_LCCN2016647604.tif/lossy-page1-220px-Chi-E_with_wife_and_baby_-_Chinese_revolutionary_leader_who_fled_to_Japan_LCCN2016647604.tif.jpg)
経歴[編集]
党・団体[編集]
●1906年︵光緒32年︶‥中国同盟会加入? ●1912年︵民国元年︶‥1月27日、統一共和党総幹事 ●8月、統一共和党を離党 ●1913年︵民国2年︶‥5月29日、進歩党名誉理事兼湖南支部長。まもなく離党政府[編集]
●1911年︵宣統3年︶‥大中華国雲南軍都督府都督 ●1912年︵民国元年︶‥中華民国雲南省都督 ●1913年︵民国2年︶‥10月、陸軍部編訳処副総裁 ●11月5日、行政会議議員 ●1914年︵民国3年︶‥5月1日、参政院参政 ●6月、昭威将軍 ●7月、陸海軍大元帥統率弁事処弁事員 ●12月、全国経界局督弁 ●1916年︵民国5年︶‥5月8日、護国軍軍務院撫軍 ●6月24日、︹北京政府︺益武将軍 ●7月6日、︹北京政府︺四川督軍兼省長︵同年8月7日、辞任︶軍[編集]
●1904年︵光緒30年︶‥12月、江西続備左軍随営学堂監督→江西材官学堂監督 ●1905年︵光緒31年︶‥2月、湖南教練処幇弁兼武備・弁目学堂教官 ●8月、広西新軍総参謀官兼教練官兼随営学堂総理官 ●9月、兼巡撫部院総参謀官 ●10月、兼広西測絵学堂堂長 ●1907年︵光緒33年︶‥2月、兼広西陸軍小学総弁 ●3月、兼広西兵備処総弁 ●1908年︵光緒34年︶‥4月、広西新練常備軍第1標標統 ●1909年︵宣統元年︶‥2月、広西竜州講武堂総弁→同監督 ●1910年︵宣統2年︶‥7月、広西混成協協統 ●1911年︵宣統3年︶‥7月、第19鎮第37協協統 ●1915年︵民国4年︶‥12月25日、護国軍第1軍総司令演じた人物[編集]
●唐威‥ドラマ﹁小鳳仙与蔡松坡﹂(1974年台湾、中華電視公司) ●凌雲‥﹁五大漢﹂︵鮑学礼導演執導︶(1974年香港、ショウ・ブラザーズ) ●劉松仁‥ドラマ﹁近代豪俠伝﹂(1976年香港、無綫電視) ●王心剛‥映画﹁知音﹂(1980年代初、中国) ●張佩華‥ドラマ﹁大将軍与小鳳仙﹂(1985年台湾、中国電視公司) ●劉松仁‥ドラマ﹁蔡鍔与小鳳仙﹂(2009年香港、無綫電視) ●アンディ・ラウ‥映画﹁建党偉業﹂(2011年、中国)参考文献[編集]
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