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裏松 光世︵うらまつ みつよ、1736年︿元文元年﹀ - 1804年︿文化元年﹀︶は、江戸時代中期から後期にかけての公家・有職故実家。内大臣・烏丸光栄の五男。裏松益光の養子。法名は固禅。裏松家5代当主。﹃大内裏図考証﹄の著者。
1736年︵元文元年︶烏丸光栄の末子︵五男︶として生まれる[1]。1747年︵延享4年︶12歳で裏松益光の養子に入り裏松家の嗣子となる。思想家竹内敬持と往来があり宝暦事件に連座、江戸幕府の忌諱にふれて遠慮︵籠居︶処分を受けた。2年後﹁所労と称し出仕致さざる事﹂との沙汰により永蟄居を命ぜられ、出家させられた。その後30年の蟄居生活の間に平安京を研究して﹃大内裏図考證﹄を著した[1]。1788年︵天明8年︶の京都の大火で内裏が焼失し、その再建にあたり、その考証を参考とすることとなった。その功により、勅命により赦免される。また褒賞として錦5把、銀10枚を下賜された。
1891年︵明治24年︶、従四位を追贈された[3]。
﹃大内裏図考證﹄[編集]
当初は和装14冊。構成については、10冊程度を合冊し一まとめにしているものなど著作者が諸巻について検討を加えておらず、現存の伝本の冊数構成はまちまちである。1788年︵天明8年︶完成、1797年︵寛政9年︶朝廷に献上[注釈 1]。藤原貞幹も助力したという。﹁故実叢書﹂所収[注釈 2]。
大内裏研究の第一の書とされる。平安京左右両京の区画制度、離宮、摂関の邸第などから書き始めて、大内裏構内の諸殿舎に関して綱をあげ、目をわかち、古図旧記を掲げて例証し詳しく解説している。朝堂院の付録として大嘗宮に関する考証を載せ、紫宸殿、清涼殿の付録として両殿内の調度を記すなど、関係事項を網羅し、すこぶる用意周到である。
本書の完成した年に発生した天明の大火により皇居が炎上・焼失したが、2年後の1790年︵寛政2年︶、新造内裏が古制に復することができたのは、光世の功績が絶大であった。
ただし、大内裏図など一部に不備な点があり、天保年間にこれを惜しんだ尾張藩主徳川斉朝の命を受けた内藤広前によって補訂がおこなわれている。
また、古代日本の宮都史を専門とした橋本義則は2011年︵平成23年︶の著書﹃古代宮都の内裏構造﹄において光世の努力を認めつつも、彼があまりにも多くの古今の書籍を参照してしまったために、内裏の歴史的変遷という視点が欠落してしまい︵内裏は火災で幾度も焼失しており、その都度まったく同じ構造の建物が再建されたわけではない︶、結果的にかつてどの時点においても実在したことのない内裏の図ができ上がってしまった、と批判している[7]。
(一)^ 朝廷に裏松光世本人が献上した清書本は全30巻50冊で、櫃とともに宮内庁書陵部に架蔵されており、国書データベースでデジタルデータが公開されている[4]。
(二)^ ﹁故実叢書﹂に収録されたのは内藤広前による補訂本であり、光世生前の最終稿とは異なる[5]。﹃大内裏図考証﹄は同叢書中の和装本14冊として1901年︵明治34年︶に初めて公刊された。その後﹁増訂故実叢書﹂﹁新訂故実叢書﹂にも所収。