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●1857年︵安政4年︶ - 出羽国秋田郡十二所︵現・秋田県大館市︶で、久保田藩士・谷田部三吉の長男として生まれる[2]。
●1870年︵明治3年︶ - 貢進生となり、大阪南校に入学する。
●1879年︵明治12年︶
●7月 - 東京大学 (旧制)仏語物理学科第2期を卒業し、理学士の学位を得る[3]。
●9月 - 東京大学予備門︵後の第一高等学校︶の教員となる[3]。
●1881年︵明治14年︶ - 東京物理学講習所の創立者の一人となる。同年、東京物理学講習所第2代所長となる。
●1882年︵明治15年︶7月22日 - 東京大学図書館第3代館長となる。
●1883年︵明治16年︶
●9月 - 東京物理学講習所所長を辞する。
●12月11日 - 東京大学図書館長を辞する。
●1885年︵明治18年︶ - 東京物理学校維持同盟員となる。
●1887年︵明治20年︶3月 - 山口高等中学校の教諭兼教頭となる。
●1888年︵明治21年︶ - マニラ初代領事となる。
●1890年︵明治23年︶8月 - 帰国し、農商務省特許局審判官及び高等商業学校教授となる[3]。
●1893年︵明治26年︶5月 - 鹿児島高等中学造士館教授に転任[3]。
●1896年︵明治29年︶
●1月 - 病気により帰京[3]。
●8月 - 京都商業学校長となる[3]。
●1899年︵明治32年︶1月 - 病気により辞職し、帰京[3]。
●1903年︵明治36年︶
●8月19日 - 正六位に叙せられる[3]。
●8月20日 - 死去。
著書等[編集]
●カタラン原著、谷田部梅吉纂訳﹃幾何練習書﹄中外堂、1884年︵明治17年︶12月
●大森俊次、谷田部梅吉訳﹃零細訓蒙代数学﹄三省堂、1887年︵明治20年︶11月
●トドハンター︵英語版︶著、大森俊次、谷田部梅吉訳﹃訓蒙代数学 上編﹄水津郁等、1887年︵明治2O年︶11月
●谷田部梅吉編﹃簡易平算書﹄吉岡書籍店、1888年︵明治21年︶9月
●中村精男、谷田部梅吉編﹃三角法階梯﹄金港堂、1889年︵明治22年︶12月
●谷田部梅吉﹁馬尼剌形勢之一斑﹂﹃東京地学協会報告﹄、1890年︵明治23年︶
●谷田部梅吉著﹃平面幾何学﹄博文館、1893年︵明治26年︶8月
●谷田部梅吉編﹃新編幾何教科書﹄金港堂、1894年︵明治27年︶、1895年︵明治28年︶
参考文献[編集]
●﹃東京物理学校五十年小史﹄︵東京物理学校、1930年︶
(一)^ ﹃東京物理学校五十年小史﹄p.196
(二)^ ab﹃東京物理学校五十年小史﹄p.53
(三)^ abcdefgh﹃東京物理学校五十年小史﹄p.54
在マニラ日本領事 |
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大使 |
- 大使館に格上げ1943
- 村田省蔵1943-1945
- 閉鎖1945
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