跡見泰
跡見 泰︵あとみ ゆたか、1884年︿明治17年﹀5月23日 - 1953年︿昭和28年﹀10月22日︶は、東京府︵現・東京都︶出身の洋画家。浦和画家のひとり。
人物[編集]
日本画家で跡見女学校︵現・跡見学園女子大学︶創設者の跡見花蹊の甥にあたる。東京美術学校卒業後は黒田清輝の指導を受ける。文展、帝展、日展と官展に出品し、無鑑査から委嘱へと次第に重きをなしていった[1]。関東大震災後、浦和町︵1934年に浦和市、現さいたま市浦和区︶に移住し、浦和画家の一人として名を連ねる。高田誠を指導した。経歴[編集]
●1884年︵明治17年︶5月23日 - 神田猿楽町に生まれる。 ●1903年︵明治36年︶ - 東京美術学校西洋画科を卒業。 ●1906年︵明治39年︶ - 白馬会の会員となる。 ●1912年︵明治45年︶ - 白馬会解散、中沢弘光、三宅克己らと光風会を創設。 ●1922年︵大正11年︶ - パリへ遊学。 ●1924年︵大正13年︶ - 浦和画家の集う埼玉県浦和町鹿島台へ移住。 ●1927年︵昭和2年︶ - 明治神宮絵画館に初の壁画﹁華族女学校行啓﹂を描く。 ●1953年︵昭和28年︶ - 69歳没。脚注[編集]
- ^ 埼玉の画家たち さきたま出版会 2000年
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 跡見泰 - 東京文化財研究所
- 『跡見泰』 - コトバンク
- 『跡見 泰』 - コトバンク