金山久松
金山 久松 | |
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生誕 |
1875年1月10日 日本 富山県 |
死没 | 1955年1月16日(80歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1897年 - 1930年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
金山 久松︵かなやま ひさまつ、1875年︵明治8年︶1月10日[1] - 1955年︵昭和30年︶1月16日[1]︶は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級[2][3]
経歴[編集]
1875年︵明治8年︶に富山県で生まれた[1]。陸軍士官学校第8期、陸軍大学校第19期卒業[1]。同校卒業後は野砲兵第9連隊附[3]、対馬警備隊司令部参謀[3]、陸軍大学校兵学教官[3]、陸軍野戦砲兵射撃学校教導大隊長兼教官[3][4]、陸軍技術審査部議員[4]、陸軍歩兵学校研究部員等を歴任した[4]。1917年︵大正6年︶8月に陸軍砲兵大佐に進級し[2]、野砲兵第24連隊長に就任した[2]。1919年︵大正8年︶に第9師団参謀長に転じ[2]、1920年︵大正9年︶に参謀本部要塞課長に就任[2]。1921年︵大正10年︶6月3日には陸軍技術会議議員となる[5]。 同年7月20日に陸軍少将に進級し[2]、野砲兵第1旅団長に就任した[1]。1922年︵大正11年︶に野戦重砲兵第4旅団長[1]、1923年︵大正12年︶に陸軍野戦砲兵学校長を歴任[1]。1926年︵大正15年︶3月2日に陸軍中将に進級し[2]、砲兵監に就任[1]、欧州・青島出張を命じられた[4]。1928年︵昭和3年︶3月8日に第12師団長に親補され[1]、1930年︵昭和5年︶8月1日に待命、8月29日に予備役に編入された[1]。1938年︵昭和13年︶4月1日に後備役に編入された[6]。 1947年︵昭和22年︶11月28日、公職追放仮指定を受けた[7]。栄典[編集]
- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[8]