鉄砲光三郎
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鉄砲 光三郎︵てっぽう みつさぶろう︶は、河内音頭の音頭取りの名跡。
初代[編集]
本名‥鉄砲光三︵1929年2月3日 - 2002年6月2日[1]︶。妻は太鼓叩きの鉄砲光子。鉄砲博三郎は従兄弟。 伝統的な河内音頭を現代的河内音頭に変革した画期的人物である。昭和30年代末から40年代前半にかけ、ギタリスト出身の作曲家和田香苗とコンビを組んで﹃鉄砲節﹄と称し、ジャズや浪曲、安来節などの要素を採り入れた変幻自在のリズムや節回しで、人気を呼ぶ。博三郎、敏三郎の三人で﹃鉄砲三三郎︵さんさぶろう︶﹄と呼ばれることもあった。人物と芸風[編集]
祖母は御詠歌を唸らせる名人であった、そんな縁で幼少の頃から地元の河内音頭に親しみ、3歳で初めて櫓に立つ。関西大学法学部法律学科卒業後[2]、八尾市役所に勤務の傍らアルバイトで音頭取りを続けていたが、人気が嵩じてプロに転向し市役所を退職。1955年に盆踊りの司会者であった光子と結婚。太鼓が得意であった為に伴奏でコンビを組む事になる。歴代の三味線奏者は、小野忠雄、暁照雄、富岡花子︵浪曲師の藤川友春︿初代﹀の姪︶、津軽三味線佐々木流の佐々木壮明など。 1959年に新世界・新花月で寄席初舞台。1961年にレコード﹃鉄砲節河内音頭﹄がミリオンセラーになり、河内音頭ブームを再燃させた結果、テレビ、ラジオの演芸番組のみならず、歌謡曲、仁侠映画の世界、海外公演にも活躍の場を広げた。1968年12月、浅草国際劇場の舞台に立ち、関東において﹁河内音頭﹂を先駆的に伝えることとなる。 1981年、大阪府文化功労賞受賞。1995年、文化功労者受章。弟子[編集]
●鉄砲一若 ●鉄砲光 - 鉄砲光会 ●鉄砲光男 - 鉄砲光会 ●鉄砲光貴 - 鉄砲光会 ●鉄砲光丸 ●鉄砲光二美 光二美会出演[編集]
●鉄砲十三夜︵ラジオ大阪︶1960年︵昭和35年︶から3年間、日曜夜23時〜23時30分[3] ●鉄砲節︵関西テレビ放送︶1961年︵昭和36年︶4月17日〜12月31日。月曜23時〜23時15分[4]。 ●新 悪名 1962年 ●てなもんや三度笠 1963年 ●鉄砲光三郎ショー︵関西テレビ放送︶1963年︵昭和38年︶1月5日〜4月19日。30分番組[5]。 ●鉄砲光三郎アワー︵サンテレビ 1983年 宮尾たか志 司会︶ 他、関西圏の音頭番組、浪曲番組などに出演。CM[編集]
●参天製薬﹁スーパーサンテ﹂︵1963年︶ ●ライオン歯磨﹁シャワシャワ﹂1982年CD・レコード[編集]
●民謡鉄砲節︵1974年、テイチク、カセット︶ ●やったれ、浪華で。日本シリーズ。︵1984年、SpeedShock、シングルレコード︶ ●芸能生活60周年記念 鉄砲光三郎60年のすべて︵1991年7月10日、テイチク、CD︶ ●鉄砲光三郎の世界︵1993年4月21日、テイチク、CD︶ ●秘蔵 鉄砲節河内音頭大全集︵2003年、テイチク、CD︶2代目[編集]
︵10月25日 -所属声優事務所の方針により本名、年齢等非公開︶。 初代の娘で、声優兼声優養成所所長の(鉄砲ゆりの)が、父の七回忌を機に、2008年10月1日に2代目を襲名した。逸話[編集]
嵐山光三郎が編集者から作家に転向することに決め、筆名を決める際に鉄砲光三郎から採ったという逸話がある。出典[編集]
- ^ 『鉄砲光三郎』 - コトバンク
- ^ 大入り満員の支援関大(関西大学新聞昭和42年8月15日)
- ^ 放送演芸史p.220-221
- ^ 放送演芸史p.289
- ^ 放送演芸史p.298