安来節
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安来節︵やすぎぶし︶は島根県安来市の民謡である。﹁どじょうすくい踊り﹂という滑稽なおどりを含み、総合的な民俗芸能として、大正期を中心に全国的人気を博した[注釈 1]。
安来節演芸館に展示されている﹁どじょうすくい﹂の服装
安来節には付き物として、ともに踊る伝統的な﹁どじょうすくい﹂があり、代表的な御座敷芸とされている。どじょうすくいのひょっとこ顔で有名。おどりには銭太鼓を用いる。また、腹踊りが演じられることもあり、現在では稀になった。
踊りには大きく分けて﹁男踊り﹂と﹁女踊り﹂がある。両方とも踊りの際には笊を持ち、さらに男踊りでは手ぬぐい︵豆絞り︶を頭に被り一文銭の鼻あてをつける︵現代では一文銭の代わりに五円玉を使うことも多い。鼻あてがない場合は割り箸を短く折ったものを鼻の穴に差し込み代用とする︶のが一般的。男踊りの場合は厳密には決まった形はないため、演者がアドリブで踊ることも許されている[7]。
男踊りのどじょう掬いは、実はこの周辺の名産である安来鋼を作るたたら吹き製法の際に原料として使われる砂鉄採取の所作を踊りに取り込んだものとされる。一説には﹁どじょう﹂は﹁土壌﹂であると云う。しかしながら、実は本当に踊りながら︵振り付けのドジョウが逃げる動作も含めて︶ドジョウがすくえてしまうということも発見されている︵探偵!ナイトスクープ︵朝日放送テレビ︵ABCテレビ︶︶の依頼より︶。
安来節の歴史[編集]
安来節は江戸時代に﹁出雲節﹂などを基礎としていくつかの地元民謡を吸収しながら発達した。 七七七五型と、この詞型の中間に七五単位のくりかえしをはさんだ長編の口説型とがある。もとは鳥取県下でうたわれた︽さんこ節︾、それを長編口説化して日本海沿岸各地でうたわれる︽出雲節︾︵︽舟方節︾︶とから派生したものと考証されている。幕末期から明治初期にかけて渡部佐兵衛とその娘である渡部お糸が大成したとされる。安来節の家元は代々﹁渡部お糸[1]﹂を襲名し、現在の家元は第四代目である。流行期に頻発した偽者の横行などにより、現在は権威的一面を強く打ち出している。他に遠藤お直などが名人として名を成した。また、レコード吹き込みにも名前が残るが、地元の芸妓の存在も大きい。 現在は郷土芸能︵民謡正調︶としての側面が強く打ち出されているが[注釈 2]、出雲から全国的な巡業がなされ[2]、大正期には吉本興業の林正之助[注釈 3]が大阪で仕掛けた大ブームがあった。着物の裾をまくり、赤い腰巻が見えるお色気で、寄席では正之助の仕掛けた諸芸バラエティ路線の花形として当初扱われ、添え物であった萬歳が変遷し、しゃべくり漫才として主役に躍り出る揺籃となった[3][4]。漫才初期に大きな存在となったミスワカナ・玉松一郎のミス・ワカナの芸歴も安来節スタートだったのも一例である。大阪のブームを見た根岸吉之助は1922年︵大正11年︶6月、それまで軽演劇を出していた東京浅草公園六区・常盤座に安来節をかけた[注釈 4]。 その好評を見た興行師大森玉木により玉木座、帝京座などで大ブームを起こし、時に遊楽館、松竹座、大東京、十二階劇場、日本館、木馬館で公演され︵地元から一座が多くやってきた︶、それゆえ浅草では必ずどこかで安来節がかかっているといわれた。大和家三姉妹が、1923年 (大正12年)大東京と十二階劇場を掛け持ち出演し、そのわずか200メートルの距離を走って間に合わせようとしたが、人出の多さに1時間もかかったという[5]。独特の田舎っぽさが受けて、大正期には、東京・大阪の日本の二大都市で安来節はもてはやされたのである︵その名残りで今でも抜群の全国的知名度を保っている︶。かように大正から昭和初期の演芸界において、安来節は多大な影響を残している。 のちブームが去っても木馬館が、1977年︵昭和52年︶6月28日にその常打ち興行を終えるまで、大正時代から一貫して浅草流の安来節は続いた。 なお、手品に安来節を取り入れた奇術師ダーク大和の大和︵やまと︶は前述の大和家三姉妹からの流れであることを示している。 また、地元では山陰放送で﹁安来節ハイライト集﹂という番組が1時間番組で放送されていた[注釈 5]ラジオ放送[編集]
●1926.2.9 安来節初放送、佐々木夏子、秋口大丸[6]踊り[編集]
現代[編集]
近年はどじょうすくいをベースに独自の踊りの流派を名乗って活動しているグループもあるほか︵一宇川流踊り[8]など︶、踊りを現代風にアレンジした﹁パラパラ安来節﹂なども登場している[9]。 安来節の流行により全国的に知名度が高まった安来市はドジョウ料理を観光資源にしており、伝統的な調理法に加えて、ご当地グルメとして﹁安来ドジョウ寿司﹂を開発している[10]。 島根県立安来高等学校の当時2年生の生徒が総合的な探究の時間という授業において、自分の探究したいテーマの班で活動をしていくという授業を行い、その中でも﹁動画・映像班﹂が1000人が安来節の銭太鼓を演じる﹁1000人銭太鼓プロジェクト﹂という企画を立ち上げた。2022年夏頃から活動を始め、翌年2023年3月23日に島根県立安来高等学校YouTubeチャンネルや安来市のCATV﹁やすぎどじょっこテレビ﹂にて﹁1000人銭太鼓︻Music Video︼﹂が公開された。※YouTubeは現在非公開安来節演芸館[編集]
安来節の公演施設として、観光客の誘致、伝統芸能の伝承と普及、市民への娯楽提供などを目的に、2006年︵平成18年︶1月15日に安来節演芸館が開館した[11]。関連項目[編集]
●安来市 ●安来鋼 ●銭太鼓 ●中浦食品 - 安来のどじょうすくいをモチーフにした山陰地方の代表銘菓﹁どじょう掬いまんじゅう﹂を製造・販売している。 ●鳥取県立米子東高等学校 - 安来のどじょうすくいを基礎にした﹁どぜうすくい三・三・七拍子﹂を応援に用いる。 ●ダーク大和 - 安来節を手品に取り入れたマジシャン。大和家三姉妹の一人、大和家八千代が漫才に転向した後に、弟子入りした1人。 ●吉田茂・東みつ子 ●花菱〆吉・花柳貞奴 ●山和なる緒・松本さん吉 ●大津検花奴 ●深田繁子 ●出雲の女 - 安来節が題材のテレビドラマ ●立川平林 - 安来節のどじょう掬いを余興に踊り、真打になった。大会にも出場。 ●小幡美香 - さぎの湯温泉 旅館﹁竹葉︵ちくよう︶﹂の旅館女将。﹁安来節どじょうすくい踊り﹂の一宇川流准師範で﹁島根を愛する名物女将﹂としてしまね観光PR大使も務め、どじょうすくい踊りを広める活動を行っている。 ●ダチョウ倶楽部 - メンバーの上島竜兵がドジョウ掬いを思わせる扮装で登場︵豆絞り︶。記憶をつなぐ存在。 ●濱口優︵よゐこ︶- フジテレビのお笑い番組﹃めちゃ²イケてるッ!﹄では、安来節に乗せてどじょう掬いを踊る﹁どぜう﹂というキャラクターに扮していた︵2005年8月に安来節保存会より感謝状を授与された︶。 ●志村けん - コントの中で安来節の曲に合わせて踊りをする事が頻発にあった。 ●へそくり社長 - 社長の田代善之助︵森繁久彌︶はどじょうすくいが得意だが、会長の福原イネ︵三好栄子︶からどじょうすくいを禁じられていた。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ ﹁やすきぶし﹂と誤読されることが多いが、正しくは﹁やすぎぶし﹂である。NHK放送文化研究所編﹃NHKことばのハンドブック 第2版﹄︵2005年、日本放送出版協会︶ISBN 978-4140112182
︵p.204︶
(二)^ 大塚民俗学会﹃日本民俗芸能事典﹄︵1976年︶に安来節は項がない。
(三)^ 吉本せいの関わりは小説に現れるが、実際には弟の正之助より遥かに役割は小さい。なお、連続テレビ小説﹃わろてんか﹄でも番頭の風太︵林正之助がモデル︶の提案で、総席主の北村藤吉︵吉本吉兵衛がモデル︶が中途で妻のてん︵吉本せいがモデル︶の助力を得て、安来に赴いて踊り子のスカウトをするシーンが描かれた。
(四)^ 中山涙﹃浅草芸人 エノケン、ロッパ、欽ちゃん、たけし、浅草演芸150年史﹄によれば、さらに早く1916年︵大正5年︶頃には初代渡辺お糸により、東京にブームが伝播していたという。東京音楽学校での採譜は確認
(五)^ 放送時期、時間等は不明