長瀬真幸
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長瀬 真幸︵ながせ まさき、1765年︵明和2年︶ - 1835年6月23日︵天保6年5月28日︶︶は、江戸時代の国学者・文献学者である。肥後国熊本藩の武士。通称は七郎平。号は田廬︵たぶせ︶、双松園。
来歴[編集]
幼少の頃、江戸時代中期の儒者である草野潜渓に学ぶ。父である長瀬正常からは有職を教わり、下益城郡守山八幡宮の神主守山河内︵広豊︶より橘家神道を学んだ[1]。また、藩校時習館教授であり、肥後国学の独自の基礎を築いた高本紫溟からは国学を学び、帆足長秋の書籍を通じて本居宣長を知る[2]。京都では浦上玉堂に琴、長野清良に有職、伊勢貞春に武家故実を学ぶ[3]。やがて高本紫溟にすすめられ、伊勢に行き本居宣長の門人となり直接教えを受けた。伊勢と肥後を往復すること4回、高弟となった[4]。また、本居宣長の古事記伝の成果に基づき、宣長と共同で、古事記本文および訓みの定本である訂正古訓古事記を編集した。 江戸にも行き塙保己一の群書類従編纂に関わり、賀茂真淵門下の双璧である加藤千蔭、村田春海らとも交遊した[5]。万葉集をよく研究し、秀歌を選び﹁万葉集佳調﹂﹁万葉集佳調拾遺﹂などを編した。﹁肥後事蹟考証﹂﹁田廬集﹂など編著書は36冊にのぼる。文化・文政期の九州三大国学者[6]の一人[7]。 ﹁国学とは古語を解明して古事を究明し、上代の神ながらの道を明らかにする学問である﹂というのが持論である。門下生は多く、中島広足、林桜園、和田厳足らがいる[8]。大正5年︵1916年︶に正五位が贈られた[9]。墓は、熊本市西区、本妙寺山中の花園墓地の高本紫溟の墓のそばにある。出典・脚注[編集]
(一)^ 熊本県立大学文学部日本語日本文学科 川平敏文編﹃肥後の和学者 上妻博之郷土史論集1﹄熊本県立大学文学部日本語日本文学研究室発行、2009、22頁
(二)^ 鈴木喬編﹃熊本の人物﹄熊本日日新聞社、1982、108頁
(三)^ 今関天彭﹃書苑 第四巻・第十号﹄三省堂、1940年、32頁。
(四)^ 熊本県教育委員会﹃熊本の先覚者たち﹄秀巧社、1968、4頁
(五)^ 熊本日日新聞社編纂﹃熊本県大百科事典﹄熊本日日新聞社、1982、610頁
(六)^ 九州三大国学者は、肥後の長瀬真幸、豊前の渡辺重名、筑前の青柳種信。
(七)^ 福本日南﹃清教徒新風連﹄実業之日本社、1916、344頁
(八)^ 鈴木喬編﹃熊本の人物﹄熊本日日新聞社、1982、108頁
(九)^ 田尻佐 編﹃贈位諸賢伝 増補版 上﹄︵近藤出版社、1975年︶特旨贈位年表 p.41
参考文献[編集]
- 加藤秀俊ほか編纂『人づくり風土記43 熊本』農山漁村文化協会、1990、204頁
- 熊本県立大学文学部日本語日本文学科 川平敏文編『肥後の和学者 上妻博之郷土史論集1』熊本県立大学文学部日本語日本文学研究室発行、2009、20-73頁