長連豪
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長 連豪︵ちょう つらひで、ちょう の つらひで、安政3年︵1856年︶ - 明治11年︵1878年︶7月27日︶は日本の武士︵加賀藩士︶、政治活動家。明治維新後の族籍は石川県士族。出生名は此木小次郎。
生涯[編集]
能登国穴水︵現・石川県鳳珠郡穴水町︶に、加賀藩士・此木︵長︶連潔の子として安政3︵1856︶年に生まれる。幼い頃は漢文学者の豊島洞斎に師事。その後、加賀藩の藩校・明倫堂で学ぶ。 西郷隆盛を尊敬しており、明治6年︵1873年︶~同8年︵1875年︶の間に2度、合計14ヶ月の間鹿児島に滞在し、桐野利秋や別府晋介と親交を結んだ。 島田一郎ら5人と共に大久保利通の暗殺を企て、明治10年︵1877年︶11月に上京する。そして明治11年︵1878年︶5月14日、東京の紀尾井町の清水谷付近にて大久保を暗殺した︵﹁紀尾井坂の変﹂とも呼ばれるが暗殺現場は紀尾井坂ではない︶。事件後に自首し、同年7月27日午前10時頃に死刑を宣告されると同日午前11時半に市ヶ谷監獄にて他の5人と共に斬首刑に処せられた。享年23。墓は谷中霊園にある。エピソード[編集]
●大久保暗殺当日、長は五所紋付きの黒羽織を着用していた︵東京日日新聞・明治11年5月15日付︶。 ●処刑されるに当たって、首打役の山田吉亮に言い残すことはないかと聞かれ、﹁北はどちらの方角ですか﹂と尋ねた。吉亮が北の方角を指し示すと、そちらに手を合わせて何事かつぶやき、﹁北は私の故郷で、今なお母が存命なもので﹂と吉亮に理由を説明したうえで、従容と首を差し出したという。吉亮はそのときの心境を後に﹁刀の錆にするのが惜しく感じられた﹂と語っている[1]。脚注[編集]
- ^ 篠田鉱造『明治百話(上)』(岩波文庫、ISBN 4003346920)