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関 政富︵せき まさとみ︶は、江戸時代中期の大名。備中国新見藩の第3代藩主。新見藩関家4代。官位は従五位下・播磨守。
公式には第2代藩主・関長広の長男となっているが、初代藩主・関長治の子とも言われており、定かではない。生年も享保8年︵1723年︶3月22日といわれているが、享保3年︵1718年︶生まれとも言われており、これも定かではない。
享保17年︵1732年︶、長広の死去により家督を継いだ。長広は病弱の上に暗愚であったため、藩政を混乱させたが、この政富は英邁で、自ら藩政を執った。そして藩校・思誠館を創設して庶民にも文武を奨励し、あるいは学資を補助するほどであった。また刑罰制度の整備を行なうなど、この治世期に新見藩は小藩ながら有能な人材を多く輩出し、全盛期を迎えた。政富自身も文化的に優れた人物であった。
宝暦10年︵1760年︶6月4日に死去した。享年38。跡を次男・政辰が継いだ。
- 父:関長広(1694-1732) - 異説あり
- 母:岡氏
- 養父:関長治(1657-1738)
- 正室:松平親純娘
- 側室
- 生母不明の子女
関氏 新見藩3代藩主 (1732年 - 1760年) |
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