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●明治33年3月17日に史談会に出席した際、阿部は﹁近藤襲撃の際に彼を討ち損じたのは、銃撃後に槍で近藤を仕留める役目だった篠原泰之進と加納鷲雄が、心臆したためか槍を捨て逃げてしまったからだ﹂と証言[4]。その後、一方的に二人との音信を絶った[5]。なお篠原は、史談会や後年執筆した手記﹃秦林親日記﹄にて﹁近藤を撃ったのは自分﹂と主張している[6]。
●新選組から密命を受け御陵衛士に潜入した密偵とされる斎藤一について﹁斎藤は、伊東が机の引出に入れていた五十両の金子を贔屓にしていた芸妓に貢ぐために盗んだので、月真院︵御陵衛士の屯所︶に居られなくなり新選組に戻った﹂と生涯信じ込んでいたという[5][7]。
●阿部が史談会で語ったとされる﹁沖田総司、これがまあ勇の一番弟子で、なかなかよく仕いました。その次は斎藤一と申します。それから是は流派が違いますが、永倉新八という者がおりました。この者は沖田よりもちと稽古が進んでおりました。﹂という談話は、新撰組最強はだれか、という話題の際に﹁1に永倉、2に沖田、3に斎藤﹂としてよく引き合いに出される。
(一)^ ﹃井汲恭平関係文書 自明治2年11月至同3年正月﹄ 東京大学史料編纂所蔵
(二)^ ﹁閏4月 神崎一二三口書︹京都裁判所︺﹂﹃明治元年閏4月 諸往復留 波26﹄ 防衛省防衛研究所蔵
(三)^ ab浦出卓郎﹁新選組勘定方大谷勇雄は阿部十郎に殺害された﹂﹃歴史研究﹄717号、2023年、146-147頁
(四)^ 史談会, 八木昇 編﹃幕末動乱の記録 : ﹁史談会﹂速記録﹄桃源社、1965年、172-173頁。
(五)^ ab市居浩一﹃新選組 高台寺党﹄新人物往来社、2004年、85頁。
(六)^ ﹁秦林親日記﹂﹃新選組覚え書﹄新人物往来社、1972年、168頁。
(七)^ ﹃幕末動乱の記録 : ﹁史談会﹂速記録﹄桃源社、163,176頁。
参考文献[編集]
●相川司﹃新選組隊士録﹄新紀元社、2011年。
●﹃新選組大人名辞典﹄新人物往来社、2001年。
●市居浩一﹃新選組 高台寺党﹄新人物往来社、2004年。