阿部正勝
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阿部正勝 | |
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 天文10年6月1日[要出典](1541年7月4日) |
死没 | 慶長5年4月7日(1600年5月19日) |
改名 | 徳千代(幼名)[1]→正勝 |
別名 | 善九郎[1]、 善右衛門[1]、豊臣正勝 |
戒名 | 玉雲[2] |
墓所 | 京都市上京区の報恩寺[2] |
官位 | 従五位下 伊予守[1] |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 阿部氏 |
父母 | 父:阿部正宣、母:不詳 |
兄弟 | 正勝、正広 |
妻 | 妻:江原定次の娘[2] |
子 | 女子、正次、忠吉、永井直勝正室、正与 |
阿部 正勝︵あべ まさかつ︶は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家の家臣。徳川家康の1歳年長で、家康の幼少期から側近くに仕えた人物である[1]。
生涯[編集]
少年期[編集]
天文16年︵1547年︶、6歳の家康︵松平竹千代︶が今川義元の命によって駿河国に向かった際に同行した[1]。﹃寛政重修諸家譜﹄︵以下﹃寛政譜﹄︶によればこのとき正勝︵徳千代︶は7歳[1]。﹃徳川実紀﹄によれば正勝は6歳で、家康の﹁あそびの友として御輿につけて同じくのせてつかはさる﹂とある[3]。家康はその後織田方に抑留されるが、正勝は尾張まで同行し、天野康景︵三之助︶[3][注釈 1]とともに熱田で家康に供奉した[1]。 天文18年︵1549年︶、今川家と織田家の人質交換により家康は駿府に移るが、この際にも正勝は従って家康の側に仕えた[1]。今川義元が家康に散楽を所望した際には、正勝が家康に代わって披露したという[1]。﹃寛政譜﹄によれば弘治2年︵1556年︶、家康とともに元服し[注釈 2]、﹁善九郎正勝﹂と名乗った[1]。その後、今川家の家臣・江原三右衛門定次の娘を娶った[1]。 永禄元年︵1558年︶、家康の初陣である三河国寺部城の鈴木重辰攻め︵寺部城の戦い︶に従軍、次いで広瀬・挙母・伊保城攻めにも参加して功績をあげ、知行地を得た[1]。家康の自立後[編集]
永禄3年︵1560年︶、義元の尾張出兵︵桶狭間の戦い参照︶の先陣を家康が任された際には、正勝は旗本を守った[1]。永禄5年︵1562年︶、家康の命を受け、伊東法印が所持していた軍書48巻の写本を作成して献上した[1]。 三河一向一揆の際には家康に仕えて奮戦し、葵の紋の馬験︵馬印︶を許された[1]。正勝は遠慮して葵紋を薄墨で描き、﹁染薄墨御紋の馬験﹂と名付けて用いた[1]。 天正元年︵1573年︶からは天竜川方面で武田勝頼との戦いに従事し、天正3年︵1575年︶の長篠の戦いでも軍功を挙げた[1]。また、天正4年︵1576年︶には、非義が露見した徳川家家臣の佐橋甚五郎を誅殺している[1][注釈 3]。 天正10年︵1582年︶、若神子の対陣︵天正壬午の乱参照︶の折には、北条氏との和睦の使者を務めた[1]。天正13年︵1585年︶12月、家康が本多正信・大久保忠隣・牧野康成︵半右衛門︶の3人を旗本や分国諸士の献策の窓口とすることを触れた際、阿部正勝にその得失をはかるよう命じた[1]。のち、正勝は御旗大将に任じられ、知行地を加えられた[1]。天正14年︵1586年︶、家康が豊臣秀吉と和議を結ぶと、家康の上洛に同行し、のちに従五位下伊予守に叙任された[1]。家康の関東入国後[編集]
天正18年︵1590年︶の小田原の役では旗本の右軍の備を担った[1]。同年、家康が関東に入国すると、武蔵国足立郡鳩ヶ谷で5000石の知行地を与えられた[1][注釈 4]︵継嗣の正次の代に加増を受け、鳩ヶ谷藩となる︶。 文禄元年︵1593年︶には家康の肥前国名護屋城行きに同行した[1]。なおこの際、息子の阿部正次が家康に随行することを切望するあまり、命令に背いて密かに行列に加わり、これが発覚して江戸に送還されるというトラブルを起こしている[2]。慶長元年︵1596年︶、豊臣姓を下賜された。慶長3年︵1598年︶、大坂城西の丸の留守居役を務める[1]。慶長4年︵1599年︶の﹁伏見騒動﹂の際には、伏見の徳川屋敷に馳せ参じて守備に当たった[1]。 ﹁伏見騒動﹂の頃には健康を害していたらしく、家康から薬の処方を与えられている[2]。慶長5年︵1600年︶、正勝がいよいよ危篤となると、家康は村越直吉を派遣して﹁懇ろの仰せ﹂を伝えさせた[2]。慶長5年︵1600年︶4月7日、大坂で死去した[2]。60歳没[2]。 家督は長男の正次が継いだ。系譜[編集]
特記事項のない限り、﹃寛政重修諸家譜﹄による[7]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、﹃寛政譜﹄の記載順。
●父‥阿部正宣
●母‥不詳
●妻‥江原定次の娘
●長男(2)‥阿部正次
●二男(3)‥阿部忠吉
●女子(4) - 永井直勝正室
●三男(5)‥阿部正与
●生母不詳の子女
●女子(1) - 大奥に仕える。
補足[編集]
●阿部家は徳川家譜代の臣とされるが[8]、﹃寛永諸家系図伝﹄では正勝から系図が始まっている[8]。﹃寛政重修諸家譜﹄では、祖父・阿部正俊︵善九郎︶、父・阿部正宣︵甚五郎︶を記載している[8]。父の正宣は岡崎城の松平昌安攻めで功績を挙げたほか[8]、一時三河を追われた松平広忠の帰国を阿部定吉とともに実現させ[8]、御旗大将に任じられたという[1]。 ●長男・阿部正次の系統からは、徳川家光に仕えて﹁六人衆﹂の一人に数えられた阿部重次︵のち老中、岩槻藩主︶や、幕末期の老中・阿部正弘︵備後福山藩主︶などを輩出している。また、二男・阿部忠吉の子の阿部忠秋も重次と同様﹁六人衆﹂に挙げられ、家光・家綱の下で老中を務めた。備考[編集]
●家康と共に駿河に在った際、今川義元は梅の実を貫いた槍を家康に、梅の穂を貫いた槍を正勝に与えた。家康は自らに与えられた槍を﹁梅実﹂と名付け、正勝に与えられた槍に﹁梅総﹂と命名した[1]。登場作品[編集]
●徳川家康︵1983年、演‥吉田紀人︶ ●豊臣秀吉 天下を獲る!︵1995年、演‥本城丸裕︶ ●徳川家康 戦国最後の勝利者︵1992年、演‥大場順︶脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ ﹃寛政譜﹄の阿部家の譜では、正勝と共に熱田で家康に供奉した人物を﹁天野三之助某﹂と記す[1]。天野家の譜では康景らが尾張で付き従った︵﹁康景等わづかに三人御小性となりて扈従す﹂︶と記しているが、康景の幼名・通称としては﹁又五郎﹂﹁三郎兵衛﹂のみを記し、﹁三之助﹂はない[4]。﹃徳川実紀﹄には﹁天野三之助康景﹂の名がある[3]。
(二)^ 家康の元服は天文24年=弘治元年︵1555年︶とされる[5]。
(三)^ ﹃寛政譜﹄によれば、甚四郎は﹁甘利二郎三郎某﹂の寝首を取り﹁偽りて﹂再び家康に仕えた。このことが﹁非義﹂とされ、﹁始末露見せしにより﹂家康の命で誅殺された[1]。
(四)^ ﹃デジタル版 日本人名大辞典+Plus﹄では、﹁伊豆国市原﹂で5000石とある。﹁伊豆国市原﹂の出典は﹃改正三河後風土記﹄であるが、同書には﹁武蔵国市原﹂﹁武蔵国鳩具﹂とする写本もあるという[6]。
出典[編集]
(一)^ abcdefghijklmnopqrstuvwxyzaaabacadaeaf﹃寛政重修諸家譜﹄巻第六百三十三﹁阿部﹂、国民図書版﹃寛政重修諸家譜 第四輯﹄p.345、﹃新訂寛政重修諸家譜 第十﹄p.345。
(二)^ abcdefgh﹃寛政重修諸家譜﹄巻第六百三十三﹁阿部﹂、国民図書版﹃寛政重修諸家譜 第四輯﹄p.346、﹃新訂寛政重修諸家譜 第十﹄p.346。
(三)^ abc﹃東照宮御実紀﹄巻第一・天文十六年、経済雑誌社版﹃徳川実紀 第一編﹄p.28。
(四)^ ﹃寛政重修諸家譜﹄巻第八百七十七﹁天野﹂、国民図書版﹃寛政重修諸家譜 第五輯﹄p.595。
(五)^ “元服と婚姻”. 徳川家康 将軍家蔵書から見るその生涯. 国立公文書館. 2022年7月2日閲覧。
(六)^ @adderri (2021年4月28日). "伊豆国市原領主阿部伊勢守正勝の家臣小笠原長旨︵刀工︶。伊豆国市原︵5000石︶ってマジでどこなんだ?". X︵旧Twitter︶より2022年7月2日閲覧。
(七)^ ﹃寛政重修諸家譜﹄巻第六百三十三﹁阿部﹂、国民図書版﹃寛政重修諸家譜 第四輯﹄pp.344-349、﹃新訂寛政重修諸家譜 第十﹄pp.344-349。
(八)^ abcde﹃寛政重修諸家譜﹄巻第六百三十三﹁阿部﹂、国民図書版﹃寛政重修諸家譜 第四輯﹄p.344、﹃新訂寛政重修諸家譜 第十﹄p.344。
参考文献[編集]
- 『寛政重修諸家譜』巻第六百三十三「阿部」
- 『寛政重修諸家譜 第四輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082713/181
- 『新訂寛政重修諸家譜 第十』(続群書類従完成会、1965年)