駅馬
表示
駅馬︵えきば/はゆま/はいま︶とは、古代律令制時代の日本の駅家に配置され、駅路の通行に供用された馬。﹁はゆま﹂﹁はいば﹂の読みは早馬を意味し、急ぎの連絡便のことを表す[1]。
概要[編集]
駅馬は駅戸によって飼育︵ただし、実際には九等戸の中中戸以上︶され、厩牧令によれば官道の中でも大路の駅には20疋、中路の駅には10疋、小路の駅には5疋の馬が設置されるのが原則であるが、道の分岐点や難路など個々の駅が持つ条件が考慮されて国司の裁量で増減が行われた。また、駅の統廃合によって余剰の馬が近隣の駅に配置される場合もあった。このため、10世紀初めに作成された﹃延喜式﹄兵部省式に記された駅に置かれた馬数が規定と異なるものが多く、中には40疋を擁する駅もあった。なお、国司は毎年駅馬を検査して病気や年老いた馬の代替や何らかの事情で駅馬の数が不足した場合には、駅稲をもって民間の良馬を買い上げることで補われていた︵﹃延喜式﹄主税寮式︶。ただし、駅家の従事者︵駅長・駅子︶や利用者の扱い方が原因で馬を死損させた場合には弁償を求めることができた。公用で駅馬を用いる者︵公務出張の官人・駅使など︶は、駅鈴を提示し、その剋数︵刻み目の数。なお、剋数は利用者の地位によって異なる︶と同じ数の馬が提供され、道案内と利用後の駅馬の帰還のために駅子1名が同行した。歴史[編集]
大化の改新︵646年︶以前の欽明天皇が崩御した欽明天皇32年︵571年︶、駅馬が遠方にいた皇太子を呼び寄せるための通信・交通手段に使われたり、推古天皇11年︵603年︶に筑紫国にあった将軍来目皇子︵くめのみこ︶が亡くなった際に、大和朝廷に報告させるための通信手段としても使用されている[2]。改新の詔では、駅制を敷いて駅馬を置くことを具体的に示した詔︵みことのり︶が発されており、駅馬に関する副文には、﹁駅馬・伝馬を給うことは皆鈴・伝符︵つたえのしるし︶の剋︵きざみ︶の数に依れ。諸国及び関には鈴契を給う﹂とあり、各国の関所などでは、駅鈴や伝符を持たない者は通行できないと定められた[1]。大化の改新を契機に律令国家が誕生したときは、より広い地域を支配するようになった大和朝廷が、地方の重要な出来事について遅滞なき報告を受ける手段として、また同時に、中央の指令を各地方へ即刻知らせるための連絡手段の必要から、全国へと展開されていった[3]。駅馬が山陽道に多いのは、遣隋使など大陸︵朝鮮半島︶との交流が盛んであったことによる[3]。脚注[編集]
参考文献[編集]
●青木和夫﹁駅馬﹂﹃日本史大事典1﹄平凡社、1992年。 ISBN 978-4-582-13101-7。
●木下良﹁駅馬﹂﹃平安時代史事典﹄角川書店、1994年。 ISBN 978-4-04-031700-7。
●武部健一﹃道路の日本史﹄中央公論新社︿中公新書﹀、2015年5月25日。ISBN 978-4-12-102321-6。
●田名網宏﹁駅馬﹂﹃国史大辞典2﹄吉川弘文館、1980年。 ISBN 978-4-642-00502-9。