高松次郎
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高松次郎 | |
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誕生日 | 1936年2月20日 |
死没年 | 1998年6月25日(62歳没) |
国籍 |
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高松次郎︵たかまつ じろう、昭和11年︵1936年︶2月20日 - 平成10年︵1998年︶6月25日︶は、前衛美術、現代日本美術家。本名は新八郎。
経歴[編集]
東京都に生まれ、1954年に東京藝術大学絵画科︵油画専攻︶に入学。在学中は小磯良平に師事した。卒業後の1958年より第10回読売アンデパンダン展へ作品の出品を開始し、以後1959、1961、1962、1963年に出品している。はじめ前衛芸術に傾倒し、中西夏之、川仁宏らと共に、有名な﹁山手線事件﹂というハプニングを行った。また中西、赤瀬川原平らと芸術集団ハイレッド・センターを結成し、数多くのパフォーマンスを実践した。 作品はインスタレーションから絵画、彫刻、壁画、写真、映画にまで様々なスタイルに至り、多くの作品が抽象的かつ、反芸術的な色合いが濃いもので、実体の無い影のみを描いた作品﹁影﹂シリーズが脚光を浴び、石や木などの自然物に僅かに手を加えただけの作品、遠近法を完全に逆にした作品など、あえて﹁思考させる﹂﹁思考する﹂ことにより、作品と世界との間に新しい関係を作りだすことに成功し、1960年代以降の日本におけるコンセプチュアル・アートに大きな影響を与えた。 しかし1980年代に登場する﹁形﹂シリーズからは作品に飛躍的な展開が見られ、平面空間に線、面、色彩が溢れるようになる。高松は62歳で亡くなるまで20年間以上三鷹にアトリエを構え、病に倒れた後も亡くなる直前まで、このシリーズを追求し続けた。 1968年より多摩美術大学専任講師を務め、1972年から1974年まで東京藝術大学にて美術学部油画科非常勤講師を務めた。1981年﹁十代の会﹂の発起人の一人[1]として同会創立に参加。主な作品[編集]
- 「遠近法の日曜広場」(1970年)大阪万博日曜広場におけるインスタレーション。
- 「遠近法のテーブル」(1967年)東京都現代美術館他
- 「ガラスの単体」(1971年)東京国立近代美術館他
- 「日本語の文字(この七つの文字)」(1970年)国立国際美術館他
- 「影」の壁画(1967年)サパークラブ・カサドール店内の壁画(倉俣史朗デザイン)
- 「影」の応接室(1974年)西日本シティ銀行(旧福岡相互銀行)本店応接室の壁画(磯崎新設計)
- 「赤ん坊の影NO.387」千葉市美術館蔵[2]